20世紀最後の「富士」

東京駅にて 2009年春には廃止になるという「富士」に乗ったのは、20世紀が終わるその日であった。

上野駅の「カシオペア」 「21世紀はレールの上で迎えたい」と考えた人がどのくらいいたか知らないが、北へ向かう「カシオペア」のほうはなかなかの盛況であった(指定券はすぐに売り切れたと聞く)。かたや、当時にして凋落の二文字が背後霊のようにのしかかる「富士」は、個室こそほぼ埋まっていたものの、開放式B寝台はガラガラというありさまであった。

車体側面の「COMPARTMENT CAR」のロゴ 乗ったのは1人用B寝台個室(2階)。天井が低く、車体に書かれた「COMPARTMENT CAR」とはずいぶんと離れた印象の乗り心地である。あまりに窮屈だったので、かなりの時間をロビーカーで過ごした。
天井が低く窮屈な個室内
狭い階段

記念乗車券表面 検札にやってきた車掌さんからもらった「懐かしの山陽路号」(2000年12月31日に運転)の記念乗車券。「20世紀→21世紀」の区間表記が泣かせる。裏には当時のJR西日本の看板列車である500系と700系レールスターのイラストが銀河鉄道チックに描かれている。
記念乗車券裏面

ロビーカー内部 当時のロビーカー内部。これでも21世紀到来の瞬間には人が集まったりするんだろうか、などという幻想はあっさり打ち砕かれて、ひとり寂しくビールで乾杯することとなった。

 下関で乗務員交代となる際のアナウンスを聞きながら、「次に乗る機会なんてあるのかなあ」などと考えていたのがありありと思い出される、そんな初冬の一日。

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「突」




コネタマ参加中: 2008年「今年の漢字」、あなたは何にする? イベントも開催!

 「今年の漢字」なんてフレーズが当たり前に出てくる時季になったのだなあ。

 当然のように人によって違ってくると思うが、世相的には『突』であろうか。秋葉原に通り魔が現れ、総理大臣がいきなり辞任し、株価が上がったり下がったりした今年を一括りにするにはちょうどいい一文字だと思うのだが。

 手元の漢和辞典で「突」の字を引くと、こんな意味が書いてある。

穴と犬とで、犬が穴から急にとび出す意。ひいて、つき出す、だしぬけの意。(旺文社漢和辞典)

 個人的にはまた違う字を連想したりもするのだが、それはそれで別の記事を参照ということで。

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1万2千円のアメ

 さんざんすったもんだした「定額給付金」の概要が「1人あたり1万2千円の給付」で固まった。とは言うものの、これが本当に低迷する日本経済を押し上げる起爆剤になると本気で信じているおめでたい人間がどの程度いるのだろう。

 今回の景気対策とやらも、結局のところ10年前の地域振興券がお色直しして出てきただけではないのだろうか。あのときは公明党のご機嫌取りを兼ねており(どちらが主でどちらが従か怪しいところである)、自民党側からも難色を示す意見が相次いだというが、今回は今回で選挙対策の臭いがぷんぷんする。「もうすぐ増税するから、今のうちに使っといてね」という魂胆なのだろうか。首相は近い将来の消費税率アップを明言してるし。

 どうにも煮え切らない感がぬぐえないのは、「国はカネを用意するだけであとの雑事は自治体まかせ」であるからだ。概要がなかなか固まらなかった要因のひとつである所得による給付制限まで地方に投げてしまっては、誰のための制度なのか分かりゃしない。よく「アメとムチ」という言い回しが使われるが、かくも露骨に「はーいアメですよー」とアメが提示される例もそうないのではあるまいか。

 ふと思い立って手元の辞書を引いてみると、飴には「(比喩的に)喜ばせて人をだますもの」という意味もあるそうだ(旺文社国語辞典による)。的確すぎて言葉もない。

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そういうことをどの口が言う

 現職の兵庫県知事の発言としてはあまりにも軽はずみで軽率な発言が飛び出した。asahi.comより。

   

井戸知事は「東京一極集中を打破するための旗を揚げなければならない」と前置きしたうえで、「関東大震災なんかが起これば(首都圏は)相当ダメージを受ける。これはチャンス」と発言。さらに「首都機能を関西が引き受けられる準備をしておかないといけない」などと述べた。

 知事としてどうこうという以前に、人としてどうなんだろう。明らかにこの発言の根底には「関東大震災ウェルカム」という意図が流れている。この調子ではヘタをすると祈祷師すら呼びかねない。問題発言連発の大阪府知事すら「不適切」と評しているあたり、常軌を逸している。

 この発言を受けたもうひとりの問題人物、東京都知事はこんなことを言っている。asahi.comより。

   

 石原知事は「他人の不幸をチャンスにするという表現は、日本人の感性になじまない。政治家は言葉が大事だ。東京の地震を期待されるなら、30年先の話かもしれないから、自分で関西の活力を取り戻す努力をしたらいいんじゃないの」と述べた。

 「政治家は言葉が大事」とはよくもまあ言ったもんである。日常茶飯事のように舌禍事件を繰り返す御仁には言われたくないものだ。石原都知事はこの発言を「バカ正直」と評したが、実態は単にバカなだけである。

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課題作文「あなたとゴジラの出会いは?」

 こんなタイトルで書くと、なんだか学校の宿題みたいである。

 一番古い「新作ゴジラ」の記憶は『ゴジラ対メガロ』であったと思う。その頃ゴジラは人間の味方であった。ゴジラの出自からすれば信じられないような境遇の変化である。なにせ地上の人間の核実験に困った海底人が攻撃してきて、それにゴジラが立ち向かっちゃうのである。かつて水爆実験の被害に遭ったはずのゴジラはどこへ行った? これでは本末転倒である。主客逆転である。でも当時はそんなストーリーがまかり通っていた。

 翌1974年に公開された『ゴジラ対メカゴジラ』が、初めて劇場で見たゴジラ映画となった。とはいえ当時5歳の幼稚園児に、おとなしく映画を見て、ストーリーを把握して、自分なりの感想を述べるように求めるのは酷である。実際のところ「映画館で見た」という記憶はあっても、映画そのものの記憶はさっぱり残っていない。

 そのあとゴジラの新作を映画館で見たのは1984年になる。かつてゴジラが好きだった幼稚園児は、ゴジラが好きな高校生になっていた。その当時にして「いまどき大まじめに怪獣映画が作れるのか」と妙な感慨にふけった記憶がある。

 そんな感慨にふけってから24年、ゴジラシリーズはよりクリアな映像になって帰ってきている。どうせ見返すなら、見慣れた平成VSシリーズよりも、古き良き時代の、よく言えば「大らかなゴジラ」を楽しみたいと思う。

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価値観いろいろ

 建前上、日本は民主主義の国であるから、価値観の多様性は許容されなければならない、とは思う。とは言うものの、さすがにこの活動には発起人の正気を疑う。

二次元キャラとの結婚を法的に認めて下さい

 署名を集めて政府に(!)提出するそうな。100万人なんて過大な目標を設定しているのは高い志を抱いているためか、はたまた「どうせ賛同者なんて集まりゃしない」と諦観しているためか。どうせ架空のキャラクターに対して一方的に妄想を抱いているだけなんだから、結婚だの入籍だのと言ったことも脳内で処理すればいいものを。

 いずれにせよ、こんな署名活動に本気で熱を上げるようなやつとは関わり合いになりたくないものだ。

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病院システムのオンライン化に関する一考察

 昨日、水頭症手術のフォローアップのために脳外科の病院を訪れた。かかりつけのこの病院は2ヶ月ほど前に現在の場所に移転し、併せて敷地面積も大幅に広くなった。おれが移転後の病院を訪ねるのは初めてのことである。

 受付で診察券と保険証を出して、検査室の前で待つ。しばらくするとCTの検査室から名前を呼ばれて頭の写真を撮る。ここまで約20分。移転前と大差はない。「じゃあ診察室の前でお待ちください」ということで、今度は並んでいる診察室の前に場所を変えて再び待ち時間。次は診察室の方からお呼びがかかるはずなのだが、なかなか順番が回ってこない。急患が入って担当の先生がそちらに時間を取られる旨の放送はあったが、あと何人くらいで自分の順番なのか分からないまま待たされるというのはイライラが募るものである。

 診察の順番が回ってきたのは、検査が終わってから2時間も後のことであった。診察室に入ると、さっき撮った頭の断層写真はパソコンのディスプレイ上に表示されていた。以前撮った写真もデータ化されて、さっきの写真の隣に表示されている。なるほど、検査室から写真を持ってくる技師がいなかったわけだ。

 それにしてもこのシステムも良し悪しで、患者側は自分のカルテがちゃんと回るところを回っているのか不安になる。ただでさえ自分の順番がいつなのか分からないのに、写真のやりとりすら患者から見えないところに行ってしまってはなおさら不安である。

 順番がいつ回ってくるか、分かるようにはできないものだろうか? 個人情報保護の観点に立つと名前をそのまま出すのは問題があるが、そうでなくても「自分の順番」の前に何人待っているかを分かるようにする方法はありそうなものだが。

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やっぱりふかしすぎの『タイタニア』

 とりあえず第2話まで放映された『タイタニア』を見てみたが……。やはり監督が同じせいか、どうしても「『銀英伝』で見た夢をもう一度」という印象しか残らない。ただでさえ誰が主人公なのかよく分からない原作を、さらに取っつきにくくしているというか、なんというか。

 キャスティングを見る限りでは、「銀英伝に出た人は原則として使わない」という方針が貫かれているようである。ただでさえ銀英伝のレストアみたいな作品なのだから、既存のキャラクターイメージがかち合う危険を避けるためにも当然の措置ではあろう。銀英伝ほど固有名詞付きのキャラクターがぞろぞろ出てくる作品世界もそうはないし、それに比べればタイタニアの登場人物は多すぎるとは言えないし、長さ自体も短いし。

 オープニングとエンディングを勢力ごとに色分けしてしまう手法も銀英伝譲りと言えるかもしれないが、どうせ踏襲するならキャストのクレジットを分けて表示する手法までまねてほしかった。敵も味方も一緒くたに表示されてしまっては、原作を読んでない視聴者が混乱するぞ。

 エンディングを見ていて気になった点がもうひとつ。反タイタニア陣営のキャラクターで、アニメ版には登場しないらしいキャラクターが2人いる。ミランダ公女とその旦那である。公女殿下の方はともかく、旦那の方はあまりアニメ向けのキャラクターではなさそうなので存在を抹消されたようにも見えるが、見方がひねくれすぎであろうか。石黒監督が文庫版の解説で「原作をいじらせてもらう」とコメントしている以上は、第3話から登場のリラ・フローレンツが「実は公女殿下です」というくらいの設定変更はやらかしているかもしれない。

 なんだかんだいいながら、「様子見」といいながら半年間しっかり視聴してしまう可能性は大いにあるが、序盤の2話を見た時点での印象は「やっぱりふかしすぎだよ、あの帯のコピーは…」ということであった。これから半年、どうなるんだか。

10月31日追記:なんだ、ちゃんと豪快な公女殿下も口のきけない旦那も出てきたじゃないか(エンディングにもちゃんといるし)。それにしてもスケールが今ひとつ狭苦しいように見えるのは気のせいだろうか。

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無知は個性じゃない

 今日も今日とてマンネリをものともしないテレビ局は、義務教育で習得する(であろう)レベルの知識を問題にするクイズバラエティをダラダラと4時間あまりも放送している。この種の番組になくてはならない(と製作者が考えている)のは、見当違いの解答を繰り出して笑いを取る係の出演者である。このところこの種の有名人は「おバカ」というレッテルを貼られてちやほやされているようだが、それがどうにも腑に落ちないでいる。

 その昔深夜枠で放映されていた『カルトQ』に出場する人々は、その偏った博識ぶりを変な目で見られたものだが、その驚愕の視線には「よく知ってるよなあ、こんなこと」と尊敬の粒子が含まれていたことを視聴者は承知していたはずである。ひるがえって現状はどうか。そこにあるのは「こんなことも知らないの?」という軽蔑のまなざしと、それに裏打ちされたねじれた優越感ではないのか。

 少なくとも、無知であることは罪ではない。しかしそれを個性であるかのように振る舞うのはやめるべきだろう。「おバカ」と言えばかわいらしく聞こえるのかもしれないが、「無知」と言ってしまえばそこまでのことである。テレビで教養のなさをひけらかす芸能人の賞味期限もそう長いものではないだろう。

 どうせ飽きられたら「過去の人」扱いされるだけだよ、あなたたち。無知がいつまでも売り物になると思うなよ。

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『パソコンは日本語をどう変えたか』

 今朝の読売新聞に書評が載っていた本。個人的にはちょっと前に読んだものだが、いい機会なので読書録代わりにここに書いておく。

 こんなタイトルが付いているが、全体の8割くらいは『プロジェクトX』ばりに「コンピュータ上で日本語を表示させるために、技術者たちがどれほど苦労してきたか」というエピソードがつづく。バックに中島みゆきの「地上の星」と田口トモロヲのナレーションが欲しくなるが、このくだりは実に興味深くもあり、ちょっと懐かしく、読み応え十分である。コンピュータで日本語処理が実現する以前には「コンピュータで使えないくらいなら漢字なんか廃止してしまえ」などという乱暴な意見が大まじめに論じられていたというのはなんともおっかない。

 本書の終わりの方では、パソコンと携帯電話が普及した昨今では日本人の漢字の知識はどうなっているのか、触れられている。やっぱりなあ、とは思ったが、「読めるけど書けない」という傾向が見られるのは情けない限りである。

 パソコンの普及に伴って、P.244ではこんな指摘も挙がっている。

  • 難しい漢字も読めるが「手で」書けない
  • やたらと難しい漢字を使いがち

 前者については身に染みて痛感する。誰でも書けそうな字なのにど忘れしてしまい、「この字どう書いたっけ?」と慌てた経験は幾度となくある。おれもいちおう漢検の準2級を持ってはいるのだが、それでもこのざまである。くわばらくわばら。

 一方後者については、他人の文章を眺めていて実感する。「いわゆる」という言葉を漢字にする人をよく見かけるが、こうした人の9割以上は自分で「所謂」とは書かないはずだ。そりゃあもう、賭けてもいいくらい。

 先人たちの偉業に敬意を払うと同時に、手書きの重要性を再認識させられた1冊であった。

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