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2006.07.26

文庫版「化石の記憶」

 スピルバーグ監督作品の「ジュラシック・パーク」(劇場公開は1993年)公開以降、毎年夏には恐竜もののイベントが定番化している。ただでさえ、子供は恐竜に興味を持つものだ。それより四半世紀前にたがみよしひさがプレイコミック誌に連載したのが「化石の記憶」(「いしのきおく」と読む)である。

 なにぶんにも当時の学説を元に描かれているので、ティラノサウルスが「ゴジラ歩き」をしていたり、恐竜が変温動物扱いされていたりするのだが、本筋はそちらではないので、むしろ「昔の怪獣映画」くらいの感覚で読むのが適当であろう。展開には周到に伏線が張られ、ほとんどの登場人物になんらかの関係性が持たされているのも面白い(「え、この人も関係者?」というレベルに至るまで)。

 おそらくはだいたいの読者が全41話のうちの第13話くらいの範囲でオチを十分予想しうると思うが、それでもなお終盤へ向かう「広げた風呂敷のたたみ方」は絶妙である。このところのたがみ氏は体調を崩しているようで、往年のキレが感じられないのが惜しい。

 文庫版とは関係ないが、全3巻の単行本が刊行されたとき、当時のファンが誰もが感じたことは「この装丁、『AKIRA』のパクリじゃねえか!」であった。B5サイズの単行本で、ページの縁に付けられた色まで同じというのには如何様な意図があったのやら。往時の担当者の見解をお聞きしたいところである(「偶然似ちゃいましたぁ」なんて答えたら張り倒すぞ)。

 まあそれにしても、オチが重要なこの作品を紹介するのに、オチに言及しないで済ませるのも楽じゃない。

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2006.07.25

退院後の経過報告・その5

 ……あれっ、「その4」で打ち止めのはずじゃなかったか?

 ひと月前にCTを撮って、ひとまずこれで安心、と高をくくっていたのだが、今日ひさしぶりに通院して断層写真を撮ってみたところ、写真に妙な「もや」のようなものが写っていた。先生の話によると、病状が長期にわたったためにこのような症状が現れてきたものらしい。

 主治医のI先生は、治療法を説明するのに「この治療法が効かない人もいます」ということを口にする(可能性の問題として)。治療部位が部位なので、慎重になるのも分かるのだが、医療事故が起きてしまっては取り返しが付かないという心情も理解はできる。

 で、今回のケースの場合、ステロイド剤の投与でどうにかなる場合と、どうにかならずにまたもや外科手術という可能性もあるという。なにせ患者本人に自覚症状がないだけにタチが悪い。正直言って「もう勘弁してくれ」である。そりゃ先生が症状をコントロールしているわけではないので誰も責められないのだが、どこかに責任のやり場を持って行かないと堪らないというのも患者の心情としてはある。

 ひとまずはステロイド剤を1週間投与、来週と再来週の通院時に薬の量を減らして、またもやCTの検査という手筈になっている。あーあ、おれの体ってどうなっちゃってるんだろう。

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2006.07.20

無責任な引責

 所属選手の起こした不始末を受けて、茨城ゴールデンゴールズの萩本欽一監督は「チーム解散」というひとつの決断を下した。しかし本当にそれでいいのだろうか。全国的にはもちろんのこと、地元茨城での影響も計り知れないものがある。今のところ耳に入ってきている声は圧倒的に萩本監督の慰留を求めている。そりゃそうだ。どう考えても一選手の不祥事とチームそのものの存続を秤にかけるというのは間尺が合わない。

 監督も事態の重大さのあまりに「解散」という言葉を使ってしまったのかもしれない。それにしたって、チームの関係者が雁首揃えて路頭に迷うというのはあんまりだ。ゴールデンゴールズの選手たちは野球がやりたくて集まってきたのだ。ある人はかつての野球少年の夢を捨てきれずに、またある人はそれまでの職場を捨ててまで、新しい土地での新生活を選んだのである。そんな人たちに対して「ボクもうイヤになっちゃったから、チームは解散ね」などと言えるのか。もしそうだとしたら、おれはスポーツマンとしての萩本監督を買いかぶっていたことになる。

 19日の記者会見で「今の気持ちは」と訊かれた萩本監督はこう答えている(nikkansports.comより)。

事が大きいのでどう考えていいのか。でもやめる以外考えられない。応援してくれた方には申し訳ないけど、やっぱり相手の方にも失礼だし。それに一番野球に対して失礼しちゃったんだから。

 ……いや、ファンよりもまず自分たちの選手たちのことを考えてくださいよ、監督。当面はきついバッシングも覚悟しなければならないだろうが、チームそのものを解体してしまう以外に監督兼オーナーとして果たすべき役割があると思う。茨城ゴールデンゴールズはあなたの私物でないことをお忘れなく。

7月22日追記:asahi.comの報道によると、萩本監督は解散を撤回する意向らしい。ふぅ。

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2006.07.19

不在の日々

 気が付いたら、前回の更新から丸2週間が過ぎる。あちらこちらのブログにコメントを残しているので、アタマの容態が悪くなってまた入院していたとか、ヨーロッパで死神博士と戦っていたわけでもない(おれは何者だ?)ことは一部の方々にはお分かりのことと思う。ここに書くことがないわけではない。ないはずである。

 ではなんで更新が滞っているのか? 一言で片付けるならば「書けなくなったから」である。もっと簡単に表現すると「スランプ」ということになるか。身も蓋もないが、そういうことだ。日々こまめにサイトなりブログなりの更新をしている人でも、「今日はかったりぃなあ、更新すんのやめとこっかなあ」と思うことがあるのではなかろうか。そんな状態がここ2週間ばかりずーっと続いている。これがけっこう困る。頭の中では「あれも書きたい」「これも書いておきたい」という気持ちばかりが先行するのだが、手の方が思うように動いてくれない。そうこうしているうちにネタとしての賞味期限が切れてしまい、「ネタの生ゴミ」と化すのである。

 今回の記事も、なかばリハビリのようなものである。記事としてはほとんど価値のないものであろう。それでも「これはブログなんだから、公序良俗に反しない限りは何を書いたっていいじゃねえか」という、ある種の開き直りもちょっとある。

 まあそういった次第で、まだもがいている最中ではあるが、そのうち以前の状態まで回復するのではないかと思う。……するといいんだけど。

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2006.07.06

怪獣一人語り・メカゴジラの巻

 ひさしぶりに怪獣の話をしてみようと思う。

 ゴジラは、その誕生から10年後に好敵手(?)であるキングギドラを対戦相手に迎えた。それからさらに10年の間、ゴジラはそのキングギドラと3度も闘い、時にはただの大きなエビと闘ったり、ただの大きなカマキリと闘ったり、ただの大きなクモと闘ったりしたのだが、誕生20年目にしてキングギドラに匹敵する強敵を対戦相手として迎えることとなった。

 ポスターにあるコピーを引用すると「宇宙をとび、ミサイルを撃ち込む!全身が武器の凄いゴジラが現れた!」。そう、メカゴジラである。

 既存のキャラクターをメカに置き換えたものとしては「キングコングの逆襲」(1967年公開)に登場したメカニコングという前例があるのだが、これは本来資源採掘用のロボットであり、戦闘用ではなかった。しかしメカゴジラは、単にゴジラのキャラクターをメカに置き換えるにとどまらず、全身に武装を施した異星人の侵略兵器としてスクリーンにデビューする。その強烈なキャラクター性は人気を呼び、円谷英二の没後に登場した怪獣としては唯一、複数回にわたってリメイクされることとなった。以前の例に倣って登場作品を以下にリストアップする。

  1. 1974年「ゴジラ対メカゴジラ
  2. 1975年「メカゴジラの逆襲
  3. 1993年「ゴジラVSメカゴジラ
  4. 2002年「ゴジラ×メカゴジラ
  5. 2003年「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

 表記上はなんら問題ないのだが、1・3・4の3本のタイトルがどれも「ゴジラたいメカゴジラ」と呼称されるのは非常に紛らわしい。まあ3は「ゴジラ・ブイエス・メカゴジラ」と読めば問題ないのだが。

 メカゴジラのデビュー作である「ゴジラ対メカゴジラ」は、全体的にツッコミを入れられるような隙が多すぎて、正直なところ30代半ばにもなって正視するにはつらすぎるものがある。しかし、前出のポスターのコピーに偽りはなく、コンビナートでのゴジラとの初戦はもちろん、クライマックスにおけるゴジラとキングシーサーの2頭を敵に回しての沖縄戦ではその性能を遺憾なく発揮した。特撮ファンからは“爆発の中野”との異名でも呼ばれる中野昭慶特技監督の個性が文字通り爆発し(余談になるが、同年8月公開の「ノストラダムスの大予言」では撮影中に東宝第7ステージを全焼させている。爆発をやりすぎたせいではないのだが)、佐藤勝のやたらハイテンションな音楽も実にマッチしていた。

 翌年公開の「メカゴジラの逆襲」では、そのタイトルとは裏腹にメカゴジラは脇に回り、新怪獣チタノザウルスを軸にストーリーは展開される。事実メカゴジラはチタノザウルスより先にゴジラに倒されてしまうのだから驚きだ。本作は28本あるゴジラシリーズで唯一女性が脚本を書いた作品であり、第1作を手がけた本多猪四郎監督の事実上の遺作でもある。伊福部昭が音楽を手がけたこともあってか、前作からの直接の続編であるにも関わらず雰囲気はかなり異なる。東宝チャンピオンまつり本来の客層である子供たちへのアピールの弱さもたたってか、観客動員数は歴代ワーストの97万人にしかならず、ゴジラシリーズは休止を余儀なくされることとなる。

 1993年の夏、おれは当時渋谷にあった海洋堂のショールームで実にインパクトのある1枚のポスターを見た。いわゆる「平成VSシリーズ」で告知ポスターのイラストを手がけた生頼範義の手による「ゴジラVSメカゴジラ」のポスターであった。ポスターの上半分を占める、アオリ構図のメカゴジラの迫力たるや筆舌に尽くしがたい物がある。それにダメ押しの一点を加えるかのように簡潔でかつインパクトのあるコピー「この戦いで、すべてが終わる。」が右上に添えられていた。このポスターでの第一印象が強烈すぎたせいもあって、実際に映画に登場するメカゴジラを見たときにはかなり落胆したものである。

 このメカゴジラは、海底から引き揚げられたメカキングギドラ(「ゴジラVSキングギドラ」に登場)に使われている23世紀の科学力を解析して作られた究極の戦闘マシーンということになっている。しかし、これを運用するGフォースという組織がエリート集団とは名ばかりのマヌケ連中だったのには辟易した。ミーティングでは「ゴジラ攻撃の安全圏は奴の背後水平方向43度、垂直方向81度の範囲だ」とか御託を並べていたくせに、いざ実戦となるとその御託はどこへやら、バカ正直に正面から撃ち合いをするような連中だったのである。そもそも、ゴジラに対抗するためにゴジラの姿を模したゴジラと同じサイズのロボット兵器を作る必然性が感じられないのが痛い。さらに、このメカゴジラの最大の武器であるプラズマ・グレネイドは、ゴジラが吐いた熱線を増幅して撃ち返すものである。裏を返せば、ゴジラの熱線を正面から食らわないとこの武器は使えない。ミーティングでの隊長の御託はなんだったんだろう。

 時代はさらにくだり、興行的な理由から2001年の映画での登場怪獣をモスラとキングギドラに差し替えた東宝は、2002年のゴジラ映画にまたまたメカゴジラを引っ張り出す。今度は1954年に現れてオキシジェン・デストロイヤーによって溶かされたゴジラの骨を引き揚げ(第1作の「ゴジラ」では骨まで溶けてしまったが)、これを元にした生体ロボット“機龍”として登場する。初めて「メカゴジラがゴジラと似た姿をしている」ことに理由が付けられたのである。従来のメカゴジラと異なり、外付けのバックユニットに武装が集中していることも特徴のひとつに数えていいかもしれない。バックユニットを排除した後には火力が低下してしまうこともあって、今までになく「ゴジラと取っ組み合うメカゴジラ」になっている。それゆえか「ゴジラ×メカゴジラ」も「東京SOS」も、派手なコピーとは裏腹に地味めなストーリー展開になっている。運用していたのも自衛隊だったし。

 ……ぐだぐだと思い返してきたが、やはりメカゴジラはゴジラに向かってボカスカ撃ちまくる初代のイメージが強くある。あれが「メカゴジラ」というブランドの原点にして頂点だった、そんな気がする。

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2006.07.02

日立駅とその周辺

 先週ハチロク見物をするついでに、かつて頻繁に利用していた日立駅をひさしぶりにじっくり見てきた。ご無沙汰しているうちに周辺店舗の店子が入れ替わっていたりして、ずいぶん驚かされた。

日立駅中央口
日立駅中央口を平和通り(駅前通り)側から

タービン動翼のオブジェ
駅前にあるタービン動翼

 写真(上)中央の右側に見えるオブジェは、「日立製作所発祥の地」であることを象徴するタービン動翼(説明を信用する限りでは本物であるらしい)。以前はこの場所に噴水があったが、駅前ロータリーの整備作業に伴って撤去され、バス乗り場の位置も大幅に変更されている。おれと同じバスでかみね公園へ向かったお年寄りは、「乗り場が変わって分かりにくくなった」と口にしていた。

 おれが最寄り駅として利用していたころには、駅の西側にだだっ広い空間があった。駅の至近に日立製作所が製品を搬出するために使う多くの引き込み線があったのだが、物流の主流が鉄道からトラックへと移行したこともあって、事実上ほったらかしになっていたのである。このスペースには駅前ロータリーよりも早く手が入り、日立新都市広場の整備やイトーヨーカ堂日立店がオープンするなどして、人の流れを国道6号線寄りから駅前に集中させることとなった。その弊害として、それまでの繁華街は半ばゴーストタウン化し、2005年には老舗デパートのボンベルタ伊勢甚日立店も閉店に追いやられてしまった。

 物流の中心だったことの名残は駅構内にも残っている。

跨線橋
1番線から中央口方向へ延びる跨線橋

 ホーム北側にある「中央口」の利用客は、否応なくこの長ーい跨線橋を通らなければならない。写真に写っている線路は一番右のもの以外はJR貨物の管轄下にある(写真左側にJR貨物のマークが入ったコンテナが見える)。しかしながら、写真の通りほとんど利用されていないのが現状で、利用者は「無駄に長い距離を歩かされている」という心境にあるのではなかろうか。写真の右側のさらに奥には3番線ホームがあり、その南端には「海岸口」がある。日立駅本来の駅舎はこの位置にあった。

海岸口駅舎
海岸口駅舎

 利用者が少ないのか、こちらの駅舎はこぢんまりとしている。親に話を聞いてみると、かつては海岸口を「旧駅」、中央口を「新駅」と呼び分けていたそうだ。

 そんな日立駅を橋上駅とする計画が進んでいる。駅ビルを造るのではなく、平屋の橋上駅となるようだ(もっとも、中央口と海岸口では高低差があるので構造上は立体的になるが)。コンペティションの結果では、このような駅舎になるらしい。利用者の利便性を高めるのはけっこうなのだが、かつての中心街がすっかり寂れているのはどうにも空しい。かみね公園から駅までを歩いてみたが、「景気の回復傾向なんてウソだ」と思わざるを得なくなったのが正直な感想である。

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