課題作文「あなたとゴジラの出会いは?」

 こんなタイトルで書くと、なんだか学校の宿題みたいである。

 一番古い「新作ゴジラ」の記憶は『ゴジラ対メガロ』であったと思う。その頃ゴジラは人間の味方であった。ゴジラの出自からすれば信じられないような境遇の変化である。なにせ地上の人間の核実験に困った海底人が攻撃してきて、それにゴジラが立ち向かっちゃうのである。かつて水爆実験の被害に遭ったはずのゴジラはどこへ行った? これでは本末転倒である。主客逆転である。でも当時はそんなストーリーがまかり通っていた。

 翌1974年に公開された『ゴジラ対メカゴジラ』が、初めて劇場で見たゴジラ映画となった。とはいえ当時5歳の幼稚園児に、おとなしく映画を見て、ストーリーを把握して、自分なりの感想を述べるように求めるのは酷である。実際のところ「映画館で見た」という記憶はあっても、映画そのものの記憶はさっぱり残っていない。

 そのあとゴジラの新作を映画館で見たのは1984年になる。かつてゴジラが好きだった幼稚園児は、ゴジラが好きな高校生になっていた。その当時にして「いまどき大まじめに怪獣映画が作れるのか」と妙な感慨にふけった記憶がある。

 そんな感慨にふけってから24年、ゴジラシリーズはよりクリアな映像になって帰ってきている。どうせ見返すなら、見慣れた平成VSシリーズよりも、古き良き時代の、よく言えば「大らかなゴジラ」を楽しみたいと思う。

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無知は個性じゃない

 今日も今日とてマンネリをものともしないテレビ局は、義務教育で習得する(であろう)レベルの知識を問題にするクイズバラエティをダラダラと4時間あまりも放送している。この種の番組になくてはならない(と製作者が考えている)のは、見当違いの解答を繰り出して笑いを取る係の出演者である。このところこの種の有名人は「おバカ」というレッテルを貼られてちやほやされているようだが、それがどうにも腑に落ちないでいる。

 その昔深夜枠で放映されていた『カルトQ』に出場する人々は、その偏った博識ぶりを変な目で見られたものだが、その驚愕の視線には「よく知ってるよなあ、こんなこと」と尊敬の粒子が含まれていたことを視聴者は承知していたはずである。ひるがえって現状はどうか。そこにあるのは「こんなことも知らないの?」という軽蔑のまなざしと、それに裏打ちされたねじれた優越感ではないのか。

 少なくとも、無知であることは罪ではない。しかしそれを個性であるかのように振る舞うのはやめるべきだろう。「おバカ」と言えばかわいらしく聞こえるのかもしれないが、「無知」と言ってしまえばそこまでのことである。テレビで教養のなさをひけらかす芸能人の賞味期限もそう長いものではないだろう。

 どうせ飽きられたら「過去の人」扱いされるだけだよ、あなたたち。無知がいつまでも売り物になると思うなよ。

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「SAVE THE FUTURE」ってうさんくさい

 その昔(と言ってもそれほど古くはないが)「人の命は地球の未来だ!」と言い切ったヒーローがいるが、そんな台詞を「そーかー?」と冷ややかな目で見ていたものである。

 地球ができて約46億年(推定)、いわゆる世界四大文明が発生したのは現在からたかだか7千年程度前でしかない。ホモ・サピエンスがこの惑星の支配者面をしているのは、地球そのものの歴史から見ればまばたき1回分よりもはるかに短い時間だ。単純に地上を支配していた期間だけで比較するなら、恐竜の方がよっぽど長い。その恐竜はとっくの昔に絶滅した。人類が破滅への道をたどらないなどとどうして断言できようか。

 …などとかなりの悲観論に走ってしまうのは、この週末にNHKが「SAVE THE FUTURE」、日テレが「Touch! eco 2008」などというスペシャル番組を組んでいるのを見てしまったからである。そんなキャンペーンをぶちあげて「地球環境を守りましょう」「二酸化炭素の排出量を減らしましょう」と主張する一方で、深夜の時間帯に放送される番組枠が減らないのはどういうことなんだろう。NHKに至っては「光熱費が半額・燃費向上CO2削減法」という内容の番組の再放送を夜中の2時台に組んでいる(光熱費をケチろうと思うなら、こんな時間にテレビなんぞ見ない方がいいに決まっている)。言行不一致も甚だしいんじゃないのか?

 現代の「生産-消費-廃棄」というサイクルの文明を手に入れた時点で、人間は首を吊るロープに頭を突っ込んでしまったのではなかろうか。もちろん登っていた踏み台はすでに蹴られている。あとできることと言ったら、ロープが締まる速度をわずかに遅くすることくらいであろう。締まりきるまでにどれほどの時間がかかるかは誰にも分からない。

 映画化されて続編も作られたマイクル・クライトンの『ジュラシック・パーク』に登場する数学者イアン・マルカムは、作中でこう言っている(映画にはないくだりである)。

危機に瀕しているのは地球じゃない。人類のほうだ。人間にはこの惑星を滅ぼすだけの力はない。救う力もない。しかし――自分たちを救済する力くらいはあるかもしれない……

 人類の危機と地球の危機を同一視するのは思い上がりもいいところだ。人類という種の存続が地球の未来に益をもたらさない可能性も、ちょっとは考えようよ。

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アニメ業界の音楽事情というやつ

 BSで放映された『アニメギガ』を見た。ゲストは“燃える作曲家”・田中公平。番組の最後で「田中さんにとって、アニメとはなんですか?」という問いに対する答えが印象的だった。曰く――、

「子どもが子守唄の次に耳にするのがアニメ音楽。だからこそ本物を聞かせてあげたい」

 至言である。アニメの音楽に対して真摯に取り組む人でなければ、こんな言葉は出てこないだろう。

 逆にそんな人たちを取り巻く環境はどうなっているのか。四半世紀も前に山本正之が「アニメがなんだ」の歌詞で皮肉った「歌とドラマと ぜんぜん合ってない」状況は輪をかけてひどくなり、露骨なタイアップは大手を振ってまかり通っている。本編の音楽を担当する作曲家が知らないところで主題歌(とはもはや呼べない曲)作りが進行し、曲を提供する側も作品のことなどちっとも考えない曲をぬけぬけと提出し、そんな曲に制作サイドがOKを出す。……こんな環境下で「本物」が作れるのか?

 そんな状況で作られる楽曲であるからして、歌詞にしても「子どもが歌う」ことなんざ考えちゃいない。日本人には「英語=カッコいい」という傾向が顕著であるから、作詞者が「どーだい、カッコいいだろう!」という感覚で付けられた歌詞にはかなりの割合で英語が入っている。誰とは言わないが、「アニメのための曲作り」を大義名分に掲げている人でさえ、この呪縛から逃げられないでいる。……そこに「子どもも聞く曲」はあるのか?

 21世紀に入ってから作られたアニメソングの中で、どれほどの曲がいわゆるスタンダードナンバーにまで昇華されるのか、はなはだ疑問だ。「そんなのできっこねえ」というのが個人的見解である。

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高速スクロールのクレジットに「信用」はあるか?

 気が付いたら年の瀬である。新聞のテレビ欄には、ぶち抜きで長時間放映されるバラエティ番組が並んでいる。内容に満足できれば文句を言うこともないのだが、ダラダラとムダに長いだけで大して面白くもないのが困りものである。

 この手のバラエティを最後まで見ていると、エンディングに流れるスタッフクレジットの表示速度がやたらと速いことに気づかされる(民放ではしょっちゅうお目にかかる)。「どうせこんなところ誰も見ちゃいないんだから、ちゃっちゃと流して終わりにしようぜ」という作り手側の魂胆が透けて見える。それだけにどうにも許し難い。

 Wikipediaで「クレジットタイトル」を検索すると、こんな文章に行き当たる。(註:文面は本記事の執筆時点のもの)

クレジットの原義は「信用」である。作品の制作に関わったキャストやスタッフの功績を認め、またその権利を明確にするためにクレジットタイトルは表示される。さらにクレジットの順番は、その作品における重要度を表している。

 視聴者が普通に読めないようなクレジットタイトルに「信用」だの「功績を認め」などというフレーズが該当するとは到底思えない。「そんなに読みたければ録画してスロー再生しろ」とでも言うのだろうか? マスメディアに携わっているのであれば、権利だけじゃなくて「放映した責任」も明確にしてくれよ。こんなせこい真似ばかりしているから、テレビの視聴率は下がり続け、逆にレンタルビデオ店の売り上げが上がるのである。

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「正解はCMのあとで!」

 最近はリアルタイムで民放の番組を見る頻度がめっきり減った。HDレコーダーに録画して後で見れば、うっとうしいCMはスキップできるからである。そんなCMに関するある調査結果が発表された。asahi.comより。

 場面を盛り上げるだけ盛り上げておいてから「正解はCMのあとで」「最新情報はこのあとすぐ」。こんなテレビの「山場CM」が多い番組に視聴者が不快感を抱いていることが、榊博文・慶応義塾大教授(社会心理学)らの調査で明らかになり近著で発表された。〔中略〕
 榊研究室は、慶大通信教育部、文学部の727人を対象にアンケートを02年に実施。調査対象の半数近くが20代で、次いで30代が多かった。

 バラエティには多いですなあ、この種の演出。サンプルが少なめでかつ偏り気味なので、調査範囲を広げると年齢や性別によってはまた違った結果が出るのかもしれない。とはいうものの、

 調査では、視聴者をCM明けまで引っ張ろうとする山場CMに対する印象として、強い肯定から強い否定まで九つの尺度で聞いた。「不愉快」について86%が肯定。CM明けのシーンの繰り返しには、74%が「イライラする」と回答した。

 ……「こんな演出は不愉快だ!」という結論を突きつけられたら、放送関係者は少なからず動揺するだろう。「とりあえずCMのあいだだけでも視聴者をテレビの前に釘付けにしとくんだもんね」というせこい魂胆が完全に見透かされているのだから。個人的には「所さんの目がテン!」で、番組の終わりに次回予告をした後に「それではここで所さんに問題です」というミニコーナーを思い出す(出題から答えまでのCM枠の時間が他のCM枠よりも長くないか?)。番組は嫌いじゃないが、あのコーナーはどうにも許し難い。

 民放の放送局からすれば、直接的な「お客さん」は視聴者ではなく、スポンサーに付いてくれる企業の方である。それでもちょっとは視聴者のスタンスにも立ってもらわないと、回り回って番組にお金を出してくれる企業がいなくなることになるぞ。

 星新一のショートショートに、「CMが流れている時間だけ人間を眠らせる機械」が登場するものがある(『ボンボンと悪夢』所収の「むだな時間」)。あったらほしいぞ、この機械。

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ウルトラセブンバッテン

 製作発表の段階で書いた記事で「世間によくある『○周年記念作品』にろくなもんはない」とコメントしたが、第1話を見たら「あー、やっぱりね…」と大きなタメイキをついてしまったよ、「ULTRASEVEN X」(リンクなんか張ってやらないぞ)。40年前に製作された作品に対して失礼なので、ここでは「ウルトラセブンバッテン」と呼びたい。いっそのこと「ウノレう七ブソ×」でもいいかもしれない。香港製品のインチキ日本語か。

 なんでしょうか、あの「ブレードランナー」な世界観は。武装した暴走族が街を牛耳っていても不思議じゃないかもしれない。降っている雨は酸性ですか。ポリススピナーか治安警察のヘリがおれの見ていないところを飛んでいたりするのでしょうか。

 そこに出てくる、あまりにも貧相な対エイリアン組織もなんだかなあ、という印象がぬぐえない。悪質な地球外生命体を撃滅するための組織なのに、武装は特殊な銃だけでいいのか。乗り物が出てきた途端に真っ逆さまに非力になるのも情けないし。

 敵になるエイリアンも密談してたかと思ったら、なんの伏線もなく巨大なやつがぼこっと現れる超展開ぶり。そこに登場する全身タイツの室伏広治。アイスラッガーが「回転する鈍器」になってるのはどういう了見だ? 斬れないアイスラッガーなんかただのカツラだ。モト冬樹の頭にでも着けておけ。

 うんざりしたおれが来週以降の録画予約を取り消したのは改めて記すまでもないだろう。

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最初から最後まで茨城県庁だぜ!

 電王とゲキレンジャーの映画を見てきた。時間帯は昨年とほとんど同じだったのだが、お客の入りは今年の方がちょい多め。なんか腐女子系列っぽいグループもちらほら。中にはウラタロスに釣られちゃったらしい女性ファン(黒縁メガネに青いウィッグを着けた、見ていて少々イタイタしい外見)もいたりして、改めて電王のファン層の広さを思い知ったりした。限定版のパンフも公開から4日目なのに早々に売り切れてたし。

以下、ネタを割りまくっているので見ていない人は注意されたし

 前座その1、電影版ゲキレンジャー。「香港ロケ」が売りのひとつだったはずだが、「ここ香港で撮りましたあ!」というシーンがエンディングくらいにしかないというのはどういうことなのか。セット内のシーンがほとんどだし、名乗りもいつもの岩場だし。

 香港には中国への返還を翌年に控えた1996年に行ってきたが、期せずして確認してしまったのは「ゴジラVSデストロイア」での香港ロケが観光地を回るだけの「手抜き」としか言いようのないロケだったこと。「あー、あのカットはここから撮ったのね」というのが観光地めぐりをしていて気付いてしまうようでは程度が知れる。「VSデストロイア」の場合、ゴジラの香港襲撃はついでみたいなものだから笑って許せもするが、ゲキレンジャーが香港ロケをタイトルにまで入れておいてあの内容なのは、ロケ地である香港に失礼なのではあるまいか。

 前座その2、モモタロスのなつやすみ。…笑うところはどこですか? それこそ「モモタロス人気あるみたいなんで作ってみました」という雰囲気が全編に漂う、良くも悪くも看板に偽りない「おまけ」。

 で、モモタロスに言わせれば「前振り」になるであろう2本を見た後で「俺、誕生!」突入。

 おー、ジュエリーホープ、外見だけじゃなくて屋内まで茨城県庁でロケしとる(U良太郎とK良太郎の登場シーンも県庁の敷地内。結構広いのだ)。先日のテレビ放映分でずいぶんと映画の方のシーンも見せられてしまったので新鮮味が足りなかったりするが、それでもきっちり見せ場として用意されているので十分OK。

 石室コマンダー牙王と配下のイマジン連中の個性が今ひとつ弱い印象(ウィングフォームの出番も「劇場版限定」の割にあっけない)もあったが、モモタロスたち4バカがドタバタ暴れ回るのを見る映画と割り切れば(いや、割り切らなくても)十分楽しめた。長石監督も「深く考えないで見てね」という趣旨のコメントをしてたし。

 案外劇場版での最大の見ものは、小太郎が変身するミニ電王かも知れん。変身前の溝口琢矢くんが自らスーツを着て立ち回りまで演じているが、「俺、参上!」のポーズはかなり堂に入ったものだったと思う。ホント、ここ数年の子役の演技レベルは間違いなく上がっているなあ。1970年代あたりにゲストで出ていた子役とは雲泥の差があるぞ(当時の方々には失礼だが)。

 昨年かなりガッカリさせられた分、今年は存分に楽しめた。できればメイキングやらディレクターズカット版やらいろいろ舞台裏も見てみたい気持ちにしてくれる、楽しい映画であった。

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「よーく見ろ。目つきが悪い」

 世間によくある「○周年記念作品」にろくなもんはない、というのはおれの持論である。「ウルトラマンシリーズ誕生40周年記念作品」と銘打って製作された「ウルトラマンメビウス」は珍しい例外であったが、どうやら「ウルトラセブン」は多数派の列に並ぶことになりそうだ。

 Sponichi Annexより「ウルトラセブン 40年ぶり復活」。秋にTBS系で放映される「ウルトラセブンX」だとさ。妙にマッチョで腹筋の割れたデザインも相当にアレだが、この目つきの悪さはなんなんだ。CREW GUYSのサコミズ隊長から偽物呼ばわりされても文句を言えないデザインである(爪先が尖っていれば完璧だ)。往年のファンからは早々に「これは『ウルトラセブンペケ』ではないのか」などと言われているが、まったく同感である。改めて成田亨のデザインと、セブンのスーツアクターを務めた上西弘次の体型の妙に感動を覚えてしまった。このスーツだけでもオリジナルの「セブン」を冒涜しているように思えて仕方ない。

 40周年を祝うのも結構だけど、あまりファンを怒らせない方が身のためだと思いますよ、円谷プロの皆様。おれを含む一部ファンは「平成セブン」すら認めていないんだから。

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「だが、今は去っていく」

 声優でありナレーターでもあった中江真司氏が28日に亡くなった。享年72。

 近年ではすっかり「『トリビアの泉』のナレーター」という肩書が板に付いていたように思うが、「冒険王ビィト」や「金色のコルダ」などアニメ声優としても活動していたことを知ったのはWikipediaで中江氏の記事を検索してである。

 それでも、おれの世代からすればやはり仮面ライダーシリーズでのナレーションの印象が強烈に残る。カラオケで「レッツゴー!! ライダーキック」を歌ったときに、後奏にぴったり収まるように「仮面ライダー・本郷猛は改造人間である。…」のナレーションを入れて悦に入った特撮ファンは少なくないだろう。そういえば21世紀の初日に出かけたカラオケで、V3のオープニングでこれやったっけ。

 独特の語り口には、いつどこで聞いても中江氏と分かる個性が光っていた。ウルトラセブンのパチンコ台のCMではメトロン星人の声を往時と変わらない名調子で当てていたし、DSのソフトのCMでも「トリビア」ばりのシュールな雰囲気を醸し出していた。

 つい3ヶ月前に小林恭治氏の訃報を聞かされたばかりだというのに、中江氏の訃報まで聞かされるとは思ってもいなかった。名ナレーターの魂の安らかならんことを。

「平和と正義の7人の戦士、仮面ライダー。彼らは、地上に悪のある限り、その勇姿を現すに違いない。だが、今は去っていく。さようなら、仮面ライダーよ。さようなら」(「仮面ライダーストロンガー」最終話より)

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BSアニメ夜話・ボトムズの巻

 いつの日かと恐れていた、「BSアニメ夜話」でまさかの『ボトムズ』。端的に言って、ガンダムと比べてしまうと微妙な知名度であるだけにどんな取り上げられ方をされるのか心配して見た。

 昨年『ヤッターマン』を取り上げたときには相当にくさしたものだったが、今回はくさす気にもなれなかった。当時見ていなかったと抜かす「自称オタキング」にしたり顔で『ボトムズ』を語ってもらいたくないものだ。こちとらリアルタイムで見てたんだ。司会の里匠アナの方がよっぽど思い入れを語っていたのではないか?

 録画したものを編集したためか、番組の進行は「福井晴敏の発言をサンライズの井上幸一氏が受け、オタキングが茶々を入れる」というスタイルに終始してしまい、コスパ製のTシャツまで着て収録に臨んだはりけ~んず前田は見事に空気化していた。お気の毒に。それでも『ヤッターマン』のときの松村邦洋のように滑ったギャグを連発されるよりはマシだが。

 アニメマエストロのコーナーも「釈迦に説法」な内容で「あー、やっぱりねえ」の域を出るものではなかった。なにより加藤夏希の「こういうのには興味ありませーん」なオーラが出まくりの姿勢がよろしくない。

 教訓。「アニメ夜話」を見るなら「ちょっと興味がある」程度の作品が取り上げられるときだけ見ること。思い入れの強すぎる作品のときに見てはいかん。……この程度のことに気付くまで何回見たんだ、おれ。

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時効管理課、茨城へ

 週末のお楽しみだった「帰ってきた時効警察」も最終回を迎えた。「あれはドラマではなくコントではないのか」という批判もあるだろうが、おれは今回のシリーズも楽しませてもらった。

 その最終回、レギュラー陣が「あーッ!」と言うシーンが多かったように思うが、リアルタイムで見ていたおれがもっとも「あーッ!」となったのは時効管理課の面々が列車で移動するシーンであった。ドラマに鉄道が出てくると「これ、どこの路線だ?」と気にするのはテツな人の習性だと思うが、さすがに見慣れた車輌が画面に映れば、あまりあちこち乗り歩かない人間でもピンと来る。「あーッ! 茨交湊線だーッ!」。

 遅れてきた三日月と霧山が落ち合ったのは、画面に映っていた時刻表から那珂湊駅と判明した(思わず時刻表と付き合わせて確認したおれも相当に物好きである)。昨年公開の映画「フラガール」でもロケが行われた駅である。日頃乗らない路線なので、十文字が乗り遅れた駅がどこかまでは分からなかったが、沿線住民の人は一発で分かったんだろうなあ。

 その気になれば第3シリーズも作れそうなので、製作の気運が高まったら作ってほしいと思う。無理にとは言わないから。

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遙か彼方の光にむけて

 作曲家でピアニストの羽田健太郎さんが2日に亡くなった。享年58。

 行年が早すぎることもさることながら、癌などというものと縁のなさそうな方だっただけに受けた衝撃は大きい(Wikipediaの記事によればだいぶ前から体調を崩しておられたようだが)。

 ハネケンさんといえば、すぎやまこういち氏御用達のピアニストでもあり、世界で初めて「ウィザードリィ」に音楽をつけた人でもある(アルバム「We Love Wizardry」収録の『地下迷宮』のアレンジは怖すぎ)。個人的には1992年9月に聞きに行った「オーケストラによるゲーム音楽コンサート2」ですぎやま氏と漫才さながらのMCを担当していた姿も忘れがたい。

 劇伴を担当されると、いささか大仰に(悪く言えばクサく)聞こえる曲を書く作曲家であった印象を受ける。アニメでは代表作と言えるであろう「マクロス」がそうであったし、中盤から参加した「ドラグナー」でもシリーズの最初から参加していた渡辺俊幸氏とは作風が異なるので、作中で流れると「ああ、これはハネケンさんの曲だな」と分かったものだった。だからといって不当に低く評価する気はないのだが。

 タイトルに引用した「マクロス」のエンディング曲『ランナー』は、ボーカルを担当した藤原誠氏の声とも相まって、しっとりとした名曲になった。作品としてはあまり好きではない「マクロス」だが、この曲は大好きだった。

 天国では晩年やめていたというお酒を楽しんでくださいね。謹んで哀悼の意を表します。

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THE ETERNAL SECOND

 元俳優の阿知波信介さんが4日に亡くなったとの報を聞いた。享年67。

 「『ウルトラセブン』のソガ隊員」と言えば、特撮ファンならずともその顔を思い出せるであろう人であった。ソガ隊員はウルトラ警備隊随一の射撃の名手であり、モロボシ・ダンとよくつるんでいたことでも印象に残る。この種のキャラクターはクールな役回りになることが多いが、ソガは誰よりも血の気の多さを感じさせる人物造形をされていたように思う。

 その阿知波さんの死因が自殺というのはどうにもやりきれない。亡くなった日の前後についてはZAKZAKの記事が詳しい。

 阿知波氏は3年前に脳梗塞のため入院。その後も高血圧治療のため、自身の体力や気力の低下を心配し、周囲に悩みを明かしていたという。

 ちょうど1年前に水頭症の検査やら手術やらで入院したときに、脳梗塞の患者さんと話す機会が何度かあった。やはり自分の体が思うように動かないというのは相当にもどかしいようだった。そんな症状で2度も入院すれば、気力も落ちてしまうだろう。悩む阿知波さんを誰も支えてあげられなかったというご遺族の無念さは察するに余りある。

 ZAKZAKの記事にもあるが、今年は「セブン」放送から40年の節目の年。そんな年に、当時のレギュラーが自ら命を絶ってしまったというのは残念としか言いようがない。

 このトピックにつけた「THE ETERNAL SECOND」は、ソガがメインになったエピソードである第36話「必殺の0.1秒」の英語版タイトル。今夜はこれを見て阿知波さんを偲ぶことにしようと思う。

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日活、敢えて火中の栗を拾うか。

 テレビも映画も独自のコンテンツに力がなく、素材を人気の漫画作品に求める傾向が顕著であるが、追い詰められた企業というものは何をしでかすか分かったものではない。nikkansports.comより

 日活は10日、人気アニメ「ヤッターマン」の実写版をはじめ、16作品の製作や配給を発表した。〔中略〕「ヤッターマン」のほかに「科学忍者隊ガッチャマン」の実写映画化も発表した。

 血迷ったか、日活。「ガッチャマン」はともかく(以前NTTがCMでやってたし)、「ヤッターマン」を実写でやってどうしようというのだろう。あれの持ち味はアニメだからこそ出たものではないのか? わざわざ手間ヒマかけて実写にしてもろくなものにならないんじゃないのか? 実写版映画の「鉄人28号」は実際に大コケしたわけだし。まして「ヤッターマン」はギャグものである。人を笑わせるのは泣かせるよりもずっと難しい。別の意味で笑いものになる可能性の方が高いような気がするぞ。

 なんかもう、安直にお色気タレントをドロンジョさまにキャスティングして、安直にドクロベェをアニメと同じ滝口順平氏に演じさせて得意げに宣伝しているさまが目に浮かぶなあ……。手遅れになる前に誰か止めてやれよ。

4月11日追記:この話題は日刊スポーツの芸能面にでかでかと報じられた。ゾロメカやおだてブタはCGでオリジナルに忠実に再現するのだと。いよいよ実写でやる意味がないんじゃないのか? 製作費は13億円、目標とする興行収入は30億円だって。……正気の沙汰とは思えません。

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「サヨウナラ、サブロウクン」

 声優でありナレーターでもあった小林恭治氏が8日に亡くなった。享年75。

 訃報を伝えるasahi.comの記事では「おそ松くん」のイヤミと「ひょっこりひょうたん島」のマシンガン・ダンディが代表作としてあげられているが、このあたりを見ていた世代よりも少し下のおれなどからすると「声優:小林恭治」よりも「ナレーター:小林恭治」のイメージが強い。特に1978年から1986年にかけて放映されたNHKの「ウルトラアイ」が印象深い。知的でかつどんな年代にも親しみやすい語り口に、科学への興味をそそられた視聴者は少なくなかったと思う。おれとほぼ同年代の谷口悟朗監督が「プラネテス」で小林氏をナレーターに起用したのにも、少なからず「ウルトラアイ」の影響があったのではなかろうか(NHKでの放映だったこともあるし)。

 個人的なイメージが「小林恭治=ナレーター」で固まっているせいか、「銀河英雄伝説」で声優としての演技を耳にしたときには少なからず面食らってしまったものだ。

 特撮物でも何本かのナレーションを担当した小林氏であるが、変わったところでは「ウルトラセブン」のゴドラ星人や「大鉄人17」中盤以降のワンセブンの声も演じている。

 ワンセブンがしゃべるようになったことに不満を持つ向きもおられるだろうが(当初ワンセブンは「イエス」と「ノー」のシグナルでしか意志を表示できなかった)、放映当時のおれはむしろワンセブンが小林氏の声でしゃべることで、それまでより近しい存在になったように感じた記憶がある。それだけに最終話でワンセブンが敵の親玉もろとも自爆してしまったのは寂しかった(「そのラストは『ジャイアントロボ』と同じじゃないのか」などとつっこまないように)。今回タイトルに使ったのは、最終話で主人公の三郎に向けたワンセブンの別れの言葉である。短くありふれたこの言葉に込められたワンセブンの思いを今になって想像すると、思わず泣けてきてしまう。

 稀代の名ナレーターよ、永遠に。あなたの声はけして忘れません。

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おや、こんなところにロケ隊が…

 今日は通院日であった。診察を終えて薬をもらい、ひいきにしているラーメン屋で昼食を済ませて大甕駅に戻ってきたところ、異様な一団が広くない改札口付近にたむろしていた。その中の1人は窓口に乗り場への行き方を訊いているようだ。わざわざ訊くほど広い駅じゃないんだがなあ。

 それとなく様子をうかがっていると、素人目にも一発で業務用と分かるごついビデオカメラと三脚を持った2人が駅の外に出て入口付近を撮り始めた。大したニュースもないことだし、報道の撮影クルーが大甕に来ることは考えにくい。となると、これは明らかに何らかの番組のロケだ。おれの視線は「さりげなさを装った凝視」に変わった。

 お、何人かがなにやら台本のような冊子を見ているぞ。冊子の表紙には当然のことながら番組のタイトルが刷られていた。ほう、「いい旅・夢気分」か。そうなるとレポーターの芸能人がいるはずだ。こんな駅で芸能人を見かけるのも珍しい。おれはさらにロケ隊をじろじろと見始めた(←思いっきり素人の行動パターン)。

 最初に気付いたのは田中美奈子(しばらく見ないうちにおばさん顔になったなあ)。そして杉田かおる(テレビで見るよりも老けて見えたぞ)。さらにもう1人、大鶴義丹(背、高ぁ)。なんだか変わった組み合わせのような気がしないでもない。さすがに旅番組の移動中ともなると、芸能人といえども同行しているスタッフと渾然となってしまうようだ。いわゆる「芸能人のオーラ」のようなものは全然感じなかった。

 ロケ隊はそれと気付いた一般人の視線を目一杯浴びながら、12時54分発のいわき行きで大甕を後にした。大鶴氏のブログによれば、このロケの模様は3月21日に放映される予定とのこと。それにしても、この種の番組で取材されるような場所が大甕にあったとは意外である。

 なお、駅を撮したカットと列車が入線してくるカットでは、おれも画面のどこかに映っている可能性がある。紺色のブルゾンとベージュのチノパンのスタイルで青いリュックを背負った男がいたら、それがおれである。指でも指して笑ってくれい(←だからそれが完全に素人の行動パターンだっつうの)。

3月21日追記:放送された番組を見た。一緒に見ていた親父の話によれば、一行が泊まった宿は「テレ東御用達」の旅館だったらしい。期待していたわけではないが(←自分にウソをつくな!)、やはりおれは映っていなかった。

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幻想に踊る視聴者

 人間、どうしても楽な方に身を任せがちである。それでいて欲は深いので、「楽に痩せたい」とか「労せずにカネを稼ぎたい」などと考える。そうした煩悩に支配された結果、ある者は新しいダイエット法を模索し、またある者はギャンブルに走る。そんなココロのスキマに、さながら喪黒福造のごとく情報番組というやつが入り込んでくる。

 情報が売りである以上、番組がウソをついてはいけない。これは作り手と受け手の暗黙の了解だ。それを「あるある」は土足で踏みにじった。あまつさえ、事前に「今度ウチの番組で納豆を取り上げるからよろしくね」といった主旨の情報が大手流通業者に流れていたという(livedoor ニュースより )から、消費者を馬鹿にしている。

 落ち着いて考えれば、「特定の食材を多めに摂取するだけで、あとは普通に日常生活を送っていれば痩せられる」なんてことは話がうますぎる。それでも「あの番組で言っているのだから」という薄弱な根拠から、一片の疑いも抱かずに納豆の買い占めに走ってしまう視聴者の、なんとまあ哀しいことか。なんとなく昨年夏のハンカチ探しの騒動を連想してしまった。

 それでも食材としての納豆にはなんの落ち度もない。悪いのはすべて、納豆を別な意味で「食い物」にしていた連中である。今回の騒ぎで苦手だった納豆が食べられるようになった人は、むしろソッポを向かないで積極的に食べてもらいたい。小売店も製造業者も大量の在庫を抱え込む羽目になって困っているはず。これを機にどんどん買ってあげれば困る人はぐっと減るだろう。

 番組自体は捏造の発覚で打ち切りに追い込まれたが、「あるある」にこれほどの影響力が残っていたことのほうに、おれはむしろ驚いた。

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光の国に祈りをこめて

 今年はウルトラマンシリーズ誕生40周年だというのに、そのシリーズ最初の作品の立ち上げに尽力した人たちが相次いでこの世を去った。今朝方には実相寺昭雄監督(29日深夜没)の訃報が流れ、夜には音楽を担当した宮内國郎氏(27日没)の訃報が。同じ日にこうした事態に接することがなかったせいか、正直どうコメントしていいものやら分からない。

 実相寺監督は、ファンの間から「実相寺アングル」と呼ばれるほどの極端なアップ(普通は毛穴が写るほど寄ったりしない)やカメラと人物の間にものを入れる撮影方法、独特の照明の使い方などで知られる。
 本来子供がメインターゲットであるはずのウルトラシリーズでも堂々と自分の個性を押し出した作品を撮る監督で、「ウルトラセブン」の『第四惑星の悪夢』(第43話)や『円盤が来た』(第45話)は、あまりのシュールな作りに子供の頃はどこが面白いのかさっぱり分からなかった。後年製作された「ウルトラマンティガ」で監督した『花』(第37話)でも独特の個性は健在で、正直「これ、監督の名前を知らずに見ている人も楽しんでるのかな?」と思ったものである。
 今年の2月に他界した脚本家の佐々木守氏と組んでは、ちょっと斜に構えたような雰囲気を醸す作品群(劇場公開された「実相寺昭雄監督作品ウルトラマン」を見れば一目瞭然だ)を数多く遺した監督であるが、一番脂がのっていたのはやはり「怪奇大作戦」ではなかっただろうか。「今夜は追悼の意をこめて『京都買います』を見る」という実相寺ファンが多数いることと思う。

 とかく「ウルトラシリーズの音楽」というと、ワンダバコーラスで有名な冬木透氏の名前が挙がりがちであるが、「ウルトラQ」と「ウルトラマン」でジャズに根ざした劇伴を手がけた宮内氏の名前も忘れてはならないだろう。しかしながら、手元にある宮内氏の音楽がオムニバスに収録された主題歌と挿入歌の類しかないというのは、故人に対する礼を欠いてしまっているようにも思う。耳にする頻度の差もあってか、宮内氏の名前を聞いて真っ先に連想したのが「ウルトラファイト」の本編BGMだったりするのも我ながらいかがなものか。
 宮内氏が生前手がけた作品の中では、ウルトラ以外に映画「ガス人間第一号」(1960年公開)がある。ある意味のちの「ウルトラQ」にも通じるであろう作品で、傑作の呼び声も高い。訃報を知って見たい衝動に駆られたのが「ウルトラQ」でも「ウルトラマン」でもなく、この映画だったのはなんだか不思議だ。

 初代ウルトラマンが誕生して40年、当時製作に情熱を傾けていた人たちもずいぶん“光の国の住人”になってしまった。いずれ誰もがそうなるのだが、2人も相次いで旅立たれてしまうのはやはり一ファンとしては寂しい限りだ。

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そして殺人者は野に放たれる

 特撮もののテレビシリーズのひとつ「怪奇大作戦」で、現在欠番扱いとなっているエピソードが1本ある。第24話『狂鬼人間』がそれだ。犯人は“脳波変調機”で一時的な精神障害者を作り出し、殺人を起こさせる。殺人を犯しても、刑法第39条第1項にある「心神喪失者の行為は、罰しない」が適用されて無罪放免となってしまう。SRI(科学捜査研究所)は犯人を追いつめるが、犯人は自ら脳波変調機で永遠の狂人になってしまい、このエピソードは嫌な後味を遺したまま幕を下ろす。

 特撮ものとは関係のない立場から『狂鬼人間』封印への経緯を探った「封印作品の謎」(著・安藤健二)で、おれは「そして殺人者は野に放たれる」(著・日垣隆)の存在を知った。日垣氏は、自著についてこう語っている――

 本書は、愉快な書物ではありません。あまりにも深刻な事件が多すぎて、ご気分を害することもあるでしょう。けれども、「正常と異常の境界線はどこにあるのか」「なぜ人は罪を犯すのか」は、おそらく人間にとって大切なテーマだろうと思います。(文庫版あとがきより)

 実際に読んでみると、「日本という、この国の司法制度はいったいどうなっているんだ?」という著者の怒りが痛いほど伝わってくる。「通り魔殺人で4人もの命を奪った犯人が『覚醒剤を使用していたこと』を理由に刑を軽減された」とか、「客の乗ったバスに放火して6人を殺した犯人が『多量のアルコールを摂取して酩酊状態にあったこと』を理由に刑を軽減された」……なんて事例が次々と暴き出される本である。愉快になれるわけなどない。ましてや前述の2人は判決で心神耗弱が認められると「してやったり」とばかりに笑みを浮かべたという。

 日垣氏は刑法のみならず、それを運用する側にも容赦ない刃を振るっている。検察は「起訴しても無罪判決を下されては出世に響く」という理由から、39条が適用されそうな案件については起訴そのものをしない。弁護士はなんとか39条が適用されるように被告人を誘導する。裁判官は何事にも「まず判決ありき」で、自分の頭でものを考えない(引用されている判決文の悪文ぶりには頭が痛くなる)。こんな状態でまともな裁判が執り行われるとはとても思えない。現行刑法が運用される限りは――少なくとも第39条が削除されるまで――どのような立場であれ、彼らのご厄介にはなりたくないものだ。

 さて、冒頭に挙げた『狂鬼人間』のケースであるが、もし実行に移されてしまったら犯人にはいかなる処分が下されるのか? けっこう真面目に考察したものがWikipediaからリンクされている。

11月29日追記:この題材を取り上げるのに前後して、連邦でも『狂鬼人間』が取り上げられた。もちろん偶然の一致。リンク先のYouTubeの映像はいつまで見られるか分からないので、これを機に見てみるのも封印作品を見る手段のひとつではある。

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往年のファンのための最新作

 今年はウルトラシリーズ誕生40周年。というわけで、テレビでは最新作の「ウルトラマンメビウス」が放映中で、そこへつながる世界観を持つウルトラ兄弟と共演する映画が製作された。その「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」を観てきた。

 こういう言い方をしてしまうと語弊があるかもしれないが、言い切ってしまおう。「メビウス」の予備知識はなくてもいいから、「タロウ」までの予備知識なら十分ある年季の入ったウルトラファンは観てきなさい。特に「エース」のファンの人は万難を排してでも観に行くように。

―以下、ネタを割りまくっているので見ていない人は注意されたし―

 冒頭から初代ウルトラマンからエースまでの4人を向こうに回して暴れまくる「究極超獣」Uキラーザウルス。戦場が月面から地球の衛星軌道に移るあたりから、早くもCGを駆使した板野サーカス全開。おお、ちゃんとセブンの声は森次氏だ。

 Uキラーザウルス封印から20年、1人神戸に降り立つメビウス=ヒビノ・ミライ。着陸するガンウインガーと実景の合成がいい感じ。そして偉大なる先達との出会い。みんないい感じに歳を取っている。高峰氏が「エース」の頃からほとんど雰囲気が変わっていないのは凄い(「今でも50メートルを全力疾走できる」と監督に語ったそうだ)。特に今回は相手がヤプールということもあってか、北斗=エースのテンションは高め。

 宇宙人連合の先陣を切って登場するのがテンペラー星人だったのは意外だったが、あっけなくメビウスに敗れてしまったのはもっと意外。「口ほどにもないやつ」などと思っていたら、同じことをガッツ星人が口にしたので思わず失笑。他の宇宙人連中も、変身能力を駆使して人をペテンにかけるザラブ星人、分身戦法で相手を翻弄するガッツ星人、確実に段階を踏んで計画を進めるナックル星人、とオリジナルの設定を踏襲してくれているあたりが「分かってるなあ」と思う。

 罠にかかって捕らえられたメビウスを「助けよう」と真っ先に提案するのは「タロウ」のときと同じでやっぱり北斗。ハヤタが止める展開までは同じだが、郷の「勝てばいいんですよ」という声に後押しされる形で最後になるかもしれない変身を決意する4人。横並びで歩いてくるシーンからおのおの変身していくくだりは鳥肌ものだった。

 上記のシーンに限らず、要所を押さえるように流れる、「ウルトラ六兄弟」や往年のBGMのアレンジ曲は、これまたオールドファンのツボつきまくり。

 復活したUキラーザウルスに対してゾフィーとタロウを加えた7人が画面を縦横無尽に飛び回るシーンでは、板野サーカスがオーバーブースト。編集でうまくつないでいるが、やはり実物のスーツとゲームみたいなCGの違和感が最後までぬぐえなかったのは少々残念。タロウがストリウム光線を放つ前の「溜め」を再現しているが、「これがCG作画でなかったら」、「タロウの声が篠田氏だったら」と思ってしまうのは高望みか。

 なんだかんだで難敵を破って、神戸を後にするミライ。さりげなく北斗がTAC時代の「二本指を立てての敬礼」を送っているのが心憎い。徹頭徹尾北斗のキャラクターが立ちまくりだったのが、第二期ウルトラの洗礼を幼少期にたっぷり浴びた人間にはなんだかうれしい。……とか言いながらも戦闘シーンではセブンばかりに注目していたのを白状しておく。やっぱりカッコいいよ、セブン。

 見終わって感じた印象は「この作品のメインターゲットは、今『メビウス』を見ている子供たちよりも、その親たちだ」ということ(なにせGUYSの面々はほとんど出番がないし)。おれと同年代の人にとっては夢のような映画に仕上がっていると思う。

 ところで、公開前に流れていた「ゾフィーの人間体の登場予定」の話は、いつ立ち消えになったんだ? 楽しみにしてたのに。

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GOJIRA、アメリカに上陸

 タイトルに使った「GOJIRA」はタイプミスではない。1998年に公開された、ローランド・エメリッヒ監督の巨大イグアナがマンハッタンをどたどた走り回る映画のことでもない。1954年公開の本多猪四郎監督の「ゴジラ」のことである。その「ゴジラ」のオリジナル版がようやくアメリカでDVD発売されるという(Sankei Web)。そのタイトルが「GOJIRA」。

 1954年版「ゴジラ」は、アメリカではレイモンド・バー(「弁護士ペリー・メイスン」等で知られる)の出演シーンを追加した上で編集を施した「怪獣王ゴジラ(英題:Godzilla King of the Monsters)」として公開された(アメリカ版の監督はテリー・モース)。

 ただ、この編集というやつが曲者で、視点がレイモンド・バー演ずる新聞記者のスティーブ・マーティンに置かれているためか「ゴジラは水爆実験のために住み処を追われて地上に出現した」という重要なテーマが語られていない。「ゴジラという巨大怪獣が東京に上陸してあちこちを壊しまくって、マーティンの友人である芹沢博士(そういう設定になっている)が発明したオキシジェン・デストロイヤーで退治される」だけの作品になっているのである。従って、ファンには有名な山根博士の「あのゴジラが最後の1匹だとは思えない」以降の台詞もばっさり切られている。

 アメリカでのオリジナル版DVD発売にあたり、Sankei Webで取材に応じたカンザス大のウィリアム・ツツイ教授は語る。

 ツツイ教授によれば、ゴジラは見る人に、核開発の行き着く先や、科学万能に対する自然の復讐(ふくしゅう)などと映り、そこに独特のこわさがある。同教授はまた、「東京を破壊するゴジラは当時の日本人には第二次大戦の恐怖とも重なったことだろう」と語る。

 このコメントを読んで、「アメリカにも元祖『ゴジラ』のテーマを理解している人がいるじゃないか」と安心した。世界で唯一実戦で核兵器を使ってしまった国の人たちにはしっかり見てもらいたい。特にホワイトハウスでふんぞり返って時折バカな発言をしている人あたりには。

 ローマ字をそのままタイプしたような「GOJIRA」の表記はちょっといただけないが、名前の出自が大戸島の伝説の怪獣「呉爾羅」に由来することを考えると、妥当な処置なのかもしれない。

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胡散臭いチャリティーマラソン

 あらかじめ明言しておくと、おれは「24時間テレビ」が嫌いである。「サライ」以前に使われていた、大野雄二作曲のテーマ曲は好きなのだが。1992年から始まった、胡散臭さ漂うチャリティーマラソンというやつがどうにも気に入らない。

 第1の理由。「視聴者を感動させよう」という製作者側の安易な意図が露骨に透けて見えること。

 第2の理由。近年の傾向として、「長距離走の経験があったとは思えない人物がランナーを務める」こと。Wikipediaやこちらのブログに過去のランナーが列挙されているが、1回目から4回目まで走った間寛平はともかく、2001年以降の人選は理解に苦しむ。今年はアンガールズが走ることが発表されたのが8月7日。STVのサイトによるとトレーニングはその1ヶ月前から始めたとのことだが、それを含めても本番まで2ヶ月弱で「夜通しで100キロを走る」ことが可能になるほど、長距離走というのは簡単なものなのだろうか?

 第3の理由。第2の理由と関連するが、「本当に公表されている距離を自分の足で完走しているのか疑わしい」こと。もっと身も蓋もない言い方をするなら「コースを公表していないことをいいことにズルしてるんじゃないの?」と。今年は沿道で応援していた女性をスタッフが怒鳴りつけたことからネット上で騒ぎになり、他のマスコミも騒いでいる。8月29日付のZAKZAKの記事の中にはこうある。

 “恫喝”現場近くに住む無職女性(79)は「普段は午後5時すぎに通過するが、今年は4時すぎ。すごくペースが速かった。去年の丸山弁護士は疲れて歩いていたのに2人は元気だった」と、武道館まで18.55キロという終盤で例年を1時間も上回るハイペースだったと証言する。一方、2人は8時43分と、いつもの“お決まり”の時間に武道館でゴールした。

 記者の書きように悪意がないとは言わないが、ズルが行われていることの状況証拠くらいにはなるのではなかろうか。

 ま、おれのように見てもいない外野がいくら騒いだところで、けったくそ悪いチャリティーマラソンは来年も行われるのだろう。どうせ見る気はないし、番組にびた一文募金してやる気もないので、「やるならどうぞご勝手に」という程度の感想しかないのだが。

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行き当たりばったりにも程がある

 ボウケンジャーとカブトの映画を見に行ってきた。尺的にも上映順的にも「ライダーが主で戦隊が従なんだろうな」という感があったが、その「主」の方がグダグダだったのには閉口した。

―以下、ネタを割りまくっているので見ていない人は注意されたし―

 いきなり「巨大隕石の落下で海が干上がった世界」というシチュエーションも相当にトンデモだが(海がないことによる昼夜の寒暖差の描写とかなかったぞ)、その後の映画独自の展開であるZECT対ネオゼクトという構図はほとんど「仮面ライダーという用心棒が戦う暴力団抗争」にしか見えなかった。そこに首を突っ込んでくる天道総司は、テレビシリーズに輪をかけて何を考えて行動しているのか分からんキャラクターと化していた。意図的に差別化を図ったのかもしれないが。

 ストーリーも相当に行き当たりばったりで、軌道エレベーターで衛星軌道に上がってケタロスとウソくさい戦い(宇宙空間でバーニアもなしにどつきあいするのは無理ありすぎだろう)をしたかと思ったら、平然とバイクで地上に舞い戻り、かと思えばまたまたバイクでエレベーターを駆け上がるという忙しい展開。そこに待ち受けるのは、ごついご面相に不相応なキザ台詞を口にするコーカサス。「戦いの舞台は宇宙」と言えば聞こえはいいが、実際に戦っているのはどう見ても窮屈なセットの中なので、「映画ならではの豪華さ」という雰囲気はあまり感じられなかった。

 そしてご都合主義としか形容のしようのない、ハイパークロックアップによる時間巻き戻し。加速装置は演出手法としてアリかもしれないが、仮面ライダーがアイテムで時間を逆行操作するのはやりすぎではないのか? いつから仮面ライダーは藤子プロの著作物になったんだ? それで冒頭の隕石落下をなかったことにしてしまうというのは、まっとうな作劇を放り出しているとしか思えない(茶色かった地球が青くなるのはヤマトへのオマージュか?)。それともテレビシリーズへつながる流れを作ったつもりなのだろうか。

 この分だと来年もライダーの映画が作られるのであろうが、もっとちゃんとしたストーリーが書ける人に脚本はお願いしたい。見ていた子供はかなり退屈していたようだったぞ。

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怪獣一人語り・メカゴジラの巻

 ひさしぶりに怪獣の話をしてみようと思う。

 ゴジラは、その誕生から10年後に好敵手(?)であるキングギドラを対戦相手に迎えた。それからさらに10年の間、ゴジラはそのキングギドラと3度も闘い、時にはただの大きなエビと闘ったり、ただの大きなカマキリと闘ったり、ただの大きなクモと闘ったりしたのだが、誕生20年目にしてキングギドラに匹敵する強敵を対戦相手として迎えることとなった。

 ポスターにあるコピーを引用すると「宇宙をとび、ミサイルを撃ち込む!全身が武器の凄いゴジラが現れた!」。そう、メカゴジラである。

 既存のキャラクターをメカに置き換えたものとしては「キングコングの逆襲」(1967年公開)に登場したメカニコングという前例があるのだが、これは本来資源採掘用のロボットであり、戦闘用ではなかった。しかしメカゴジラは、単にゴジラのキャラクターをメカに置き換えるにとどまらず、全身に武装を施した異星人の侵略兵器としてスクリーンにデビューする。その強烈なキャラクター性は人気を呼び、円谷英二の没後に登場した怪獣としては唯一、複数回にわたってリメイクされることとなった。以前の例に倣って登場作品を以下にリストアップする。

  1. 1974年「ゴジラ対メカゴジラ
  2. 1975年「メカゴジラの逆襲
  3. 1993年「ゴジラVSメカゴジラ
  4. 2002年「ゴジラ×メカゴジラ
  5. 2003年「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

 表記上はなんら問題ないのだが、1・3・4の3本のタイトルがどれも「ゴジラたいメカゴジラ」と呼称されるのは非常に紛らわしい。まあ3は「ゴジラ・ブイエス・メカゴジラ」と読めば問題ないのだが。

 メカゴジラのデビュー作である「ゴジラ対メカゴジラ」は、全体的にツッコミを入れられるような隙が多すぎて、正直なところ30代半ばにもなって正視するにはつらすぎるものがある。しかし、前出のポスターのコピーに偽りはなく、コンビナートでのゴジラとの初戦はもちろん、クライマックスにおけるゴジラとキングシーサーの2頭を敵に回しての沖縄戦ではその性能を遺憾なく発揮した。特撮ファンからは“爆発の中野”との異