課題作文「あなたとゴジラの出会いは?」

 こんなタイトルで書くと、なんだか学校の宿題みたいである。

 一番古い「新作ゴジラ」の記憶は『ゴジラ対メガロ』であったと思う。その頃ゴジラは人間の味方であった。ゴジラの出自からすれば信じられないような境遇の変化である。なにせ地上の人間の核実験に困った海底人が攻撃してきて、それにゴジラが立ち向かっちゃうのである。かつて水爆実験の被害に遭ったはずのゴジラはどこへ行った? これでは本末転倒である。主客逆転である。でも当時はそんなストーリーがまかり通っていた。

 翌1974年に公開された『ゴジラ対メカゴジラ』が、初めて劇場で見たゴジラ映画となった。とはいえ当時5歳の幼稚園児に、おとなしく映画を見て、ストーリーを把握して、自分なりの感想を述べるように求めるのは酷である。実際のところ「映画館で見た」という記憶はあっても、映画そのものの記憶はさっぱり残っていない。

 そのあとゴジラの新作を映画館で見たのは1984年になる。かつてゴジラが好きだった幼稚園児は、ゴジラが好きな高校生になっていた。その当時にして「いまどき大まじめに怪獣映画が作れるのか」と妙な感慨にふけった記憶がある。

 そんな感慨にふけってから24年、ゴジラシリーズはよりクリアな映像になって帰ってきている。どうせ見返すなら、見慣れた平成VSシリーズよりも、古き良き時代の、よく言えば「大らかなゴジラ」を楽しみたいと思う。

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ウルトラセブンバッテン

 製作発表の段階で書いた記事で「世間によくある『○周年記念作品』にろくなもんはない」とコメントしたが、第1話を見たら「あー、やっぱりね…」と大きなタメイキをついてしまったよ、「ULTRASEVEN X」(リンクなんか張ってやらないぞ)。40年前に製作された作品に対して失礼なので、ここでは「ウルトラセブンバッテン」と呼びたい。いっそのこと「ウノレう七ブソ×」でもいいかもしれない。香港製品のインチキ日本語か。

 なんでしょうか、あの「ブレードランナー」な世界観は。武装した暴走族が街を牛耳っていても不思議じゃないかもしれない。降っている雨は酸性ですか。ポリススピナーか治安警察のヘリがおれの見ていないところを飛んでいたりするのでしょうか。

 そこに出てくる、あまりにも貧相な対エイリアン組織もなんだかなあ、という印象がぬぐえない。悪質な地球外生命体を撃滅するための組織なのに、武装は特殊な銃だけでいいのか。乗り物が出てきた途端に真っ逆さまに非力になるのも情けないし。

 敵になるエイリアンも密談してたかと思ったら、なんの伏線もなく巨大なやつがぼこっと現れる超展開ぶり。そこに登場する全身タイツの室伏広治。アイスラッガーが「回転する鈍器」になってるのはどういう了見だ? 斬れないアイスラッガーなんかただのカツラだ。モト冬樹の頭にでも着けておけ。

 うんざりしたおれが来週以降の録画予約を取り消したのは改めて記すまでもないだろう。

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最初から最後まで茨城県庁だぜ!

 電王とゲキレンジャーの映画を見てきた。時間帯は昨年とほとんど同じだったのだが、お客の入りは今年の方がちょい多め。なんか腐女子系列っぽいグループもちらほら。中にはウラタロスに釣られちゃったらしい女性ファン(黒縁メガネに青いウィッグを着けた、見ていて少々イタイタしい外見)もいたりして、改めて電王のファン層の広さを思い知ったりした。限定版のパンフも公開から4日目なのに早々に売り切れてたし。

以下、ネタを割りまくっているので見ていない人は注意されたし

 前座その1、電影版ゲキレンジャー。「香港ロケ」が売りのひとつだったはずだが、「ここ香港で撮りましたあ!」というシーンがエンディングくらいにしかないというのはどういうことなのか。セット内のシーンがほとんどだし、名乗りもいつもの岩場だし。

 香港には中国への返還を翌年に控えた1996年に行ってきたが、期せずして確認してしまったのは「ゴジラVSデストロイア」での香港ロケが観光地を回るだけの「手抜き」としか言いようのないロケだったこと。「あー、あのカットはここから撮ったのね」というのが観光地めぐりをしていて気付いてしまうようでは程度が知れる。「VSデストロイア」の場合、ゴジラの香港襲撃はついでみたいなものだから笑って許せもするが、ゲキレンジャーが香港ロケをタイトルにまで入れておいてあの内容なのは、ロケ地である香港に失礼なのではあるまいか。

 前座その2、モモタロスのなつやすみ。…笑うところはどこですか? それこそ「モモタロス人気あるみたいなんで作ってみました」という雰囲気が全編に漂う、良くも悪くも看板に偽りない「おまけ」。

 で、モモタロスに言わせれば「前振り」になるであろう2本を見た後で「俺、誕生!」突入。

 おー、ジュエリーホープ、外見だけじゃなくて屋内まで茨城県庁でロケしとる(U良太郎とK良太郎の登場シーンも県庁の敷地内。結構広いのだ)。先日のテレビ放映分でずいぶんと映画の方のシーンも見せられてしまったので新鮮味が足りなかったりするが、それでもきっちり見せ場として用意されているので十分OK。

 石室コマンダー牙王と配下のイマジン連中の個性が今ひとつ弱い印象(ウィングフォームの出番も「劇場版限定」の割にあっけない)もあったが、モモタロスたち4バカがドタバタ暴れ回るのを見る映画と割り切れば(いや、割り切らなくても)十分楽しめた。長石監督も「深く考えないで見てね」という趣旨のコメントをしてたし。

 案外劇場版での最大の見ものは、小太郎が変身するミニ電王かも知れん。変身前の溝口琢矢くんが自らスーツを着て立ち回りまで演じているが、「俺、参上!」のポーズはかなり堂に入ったものだったと思う。ホント、ここ数年の子役の演技レベルは間違いなく上がっているなあ。1970年代あたりにゲストで出ていた子役とは雲泥の差があるぞ(当時の方々には失礼だが)。

 昨年かなりガッカリさせられた分、今年は存分に楽しめた。できればメイキングやらディレクターズカット版やらいろいろ舞台裏も見てみたい気持ちにしてくれる、楽しい映画であった。

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二十世紀はバイバイ 何だかんだにサンキュー

 作詞家の阿久悠氏が亡くなった。享年71。

 つい先日NHKを見ていたら、半田健人がますだおかだに歌謡曲のうんちくを語る番組に「解説者」として出演していたのを見たばかりだったので、この訃報には驚いた。その番組での阿久氏は顔色も悪く、ずいぶんやつれた印象を受けたので「どこか悪いのでは?」とも思ってはいたのだが。

 阿久氏というと、1970年代の歌謡曲(このころはJ-POPなどというスカしたフレーズは存在しなかった)の作詞家を代表する人物であった。Wikipediaを見てみても綺羅星の如くヒット曲のタイトルが並んでいる。守備範囲は歌謡曲にとどまらず、およそ歌詞の付いている曲であれば、それこそ「適当に石を投げれば当たる」くらい数多くのジャンルの曲に詞を提供している(アニメソングや校歌なども)。その数は5000を越えるというから恐れ入る。

 で、訃報に触れるにあたってタイトルにはどの曲から歌詞を拝借するか悩んだ結果、大多数のアニメファンが挙げるであろう『ヤマト』は敢えてはずし、氏が手がけたアニメソングとしてはリストの終わりの方に記載されるであろう『はれときどきぶた』3代目のオープニング「BOO ~おなかが空くほど笑ってみたい~」から感謝の意を込めて引っ張ってみた。

 阿久さん、何だかんだにありがとうございました。ゆっくりお休みください。

8月2日追記:冒頭で触れた番組は5月に収録されたという記事(デイリースポーツ)を読んだ。体調の悪化はそのすぐ後であったようだ。

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「よーく見ろ。目つきが悪い」

 世間によくある「○周年記念作品」にろくなもんはない、というのはおれの持論である。「ウルトラマンシリーズ誕生40周年記念作品」と銘打って製作された「ウルトラマンメビウス」は珍しい例外であったが、どうやら「ウルトラセブン」は多数派の列に並ぶことになりそうだ。

 Sponichi Annexより「ウルトラセブン 40年ぶり復活」。秋にTBS系で放映される「ウルトラセブンX」だとさ。妙にマッチョで腹筋の割れたデザインも相当にアレだが、この目つきの悪さはなんなんだ。CREW GUYSのサコミズ隊長から偽物呼ばわりされても文句を言えないデザインである(爪先が尖っていれば完璧だ)。往年のファンからは早々に「これは『ウルトラセブンペケ』ではないのか」などと言われているが、まったく同感である。改めて成田亨のデザインと、セブンのスーツアクターを務めた上西弘次の体型の妙に感動を覚えてしまった。このスーツだけでもオリジナルの「セブン」を冒涜しているように思えて仕方ない。

 40周年を祝うのも結構だけど、あまりファンを怒らせない方が身のためだと思いますよ、円谷プロの皆様。おれを含む一部ファンは「平成セブン」すら認めていないんだから。

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「だが、今は去っていく」

 声優でありナレーターでもあった中江真司氏が28日に亡くなった。享年72。

 近年ではすっかり「『トリビアの泉』のナレーター」という肩書が板に付いていたように思うが、「冒険王ビィト」や「金色のコルダ」などアニメ声優としても活動していたことを知ったのはWikipediaで中江氏の記事を検索してである。

 それでも、おれの世代からすればやはり仮面ライダーシリーズでのナレーションの印象が強烈に残る。カラオケで「レッツゴー!! ライダーキック」を歌ったときに、後奏にぴったり収まるように「仮面ライダー・本郷猛は改造人間である。…」のナレーションを入れて悦に入った特撮ファンは少なくないだろう。そういえば21世紀の初日に出かけたカラオケで、V3のオープニングでこれやったっけ。

 独特の語り口には、いつどこで聞いても中江氏と分かる個性が光っていた。ウルトラセブンのパチンコ台のCMではメトロン星人の声を往時と変わらない名調子で当てていたし、DSのソフトのCMでも「トリビア」ばりのシュールな雰囲気を醸し出していた。

 つい3ヶ月前に小林恭治氏の訃報を聞かされたばかりだというのに、中江氏の訃報まで聞かされるとは思ってもいなかった。名ナレーターの魂の安らかならんことを。

「平和と正義の7人の戦士、仮面ライダー。彼らは、地上に悪のある限り、その勇姿を現すに違いない。だが、今は去っていく。さようなら、仮面ライダーよ。さようなら」(「仮面ライダーストロンガー」最終話より)

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遙か彼方の光にむけて

 作曲家でピアニストの羽田健太郎さんが2日に亡くなった。享年58。

 行年が早すぎることもさることながら、癌などというものと縁のなさそうな方だっただけに受けた衝撃は大きい(Wikipediaの記事によればだいぶ前から体調を崩しておられたようだが)。

 ハネケンさんといえば、すぎやまこういち氏御用達のピアニストでもあり、世界で初めて「ウィザードリィ」に音楽をつけた人でもある(アルバム「We Love Wizardry」収録の『地下迷宮』のアレンジは怖すぎ)。個人的には1992年9月に聞きに行った「オーケストラによるゲーム音楽コンサート2」ですぎやま氏と漫才さながらのMCを担当していた姿も忘れがたい。

 劇伴を担当されると、いささか大仰に(悪く言えばクサく)聞こえる曲を書く作曲家であった印象を受ける。アニメでは代表作と言えるであろう「マクロス」がそうであったし、中盤から参加した「ドラグナー」でもシリーズの最初から参加していた渡辺俊幸氏とは作風が異なるので、作中で流れると「ああ、これはハネケンさんの曲だな」と分かったものだった。だからといって不当に低く評価する気はないのだが。

 タイトルに引用した「マクロス」のエンディング曲『ランナー』は、ボーカルを担当した藤原誠氏の声とも相まって、しっとりとした名曲になった。作品としてはあまり好きではない「マクロス」だが、この曲は大好きだった。

 天国では晩年やめていたというお酒を楽しんでくださいね。謹んで哀悼の意を表します。

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THE ETERNAL SECOND

 元俳優の阿知波信介さんが4日に亡くなったとの報を聞いた。享年67。

 「『ウルトラセブン』のソガ隊員」と言えば、特撮ファンならずともその顔を思い出せるであろう人であった。ソガ隊員はウルトラ警備隊随一の射撃の名手であり、モロボシ・ダンとよくつるんでいたことでも印象に残る。この種のキャラクターはクールな役回りになることが多いが、ソガは誰よりも血の気の多さを感じさせる人物造形をされていたように思う。

 その阿知波さんの死因が自殺というのはどうにもやりきれない。亡くなった日の前後についてはZAKZAKの記事が詳しい。

 阿知波氏は3年前に脳梗塞のため入院。その後も高血圧治療のため、自身の体力や気力の低下を心配し、周囲に悩みを明かしていたという。

 ちょうど1年前に水頭症の検査やら手術やらで入院したときに、脳梗塞の患者さんと話す機会が何度かあった。やはり自分の体が思うように動かないというのは相当にもどかしいようだった。そんな症状で2度も入院すれば、気力も落ちてしまうだろう。悩む阿知波さんを誰も支えてあげられなかったというご遺族の無念さは察するに余りある。

 ZAKZAKの記事にもあるが、今年は「セブン」放送から40年の節目の年。そんな年に、当時のレギュラーが自ら命を絶ってしまったというのは残念としか言いようがない。

 このトピックにつけた「THE ETERNAL SECOND」は、ソガがメインになったエピソードである第36話「必殺の0.1秒」の英語版タイトル。今夜はこれを見て阿知波さんを偲ぶことにしようと思う。

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ウルトラセブンとラフマニノフ

 「ウルトラセブン」の最終話『史上最大の侵略(後編)』で、ダンが自分の正体をアンヌに告げるシーンに使われているのがロベルト・シューマン作曲の「ピアノ協奏曲イ短調 作品54」の第1楽章であるのは、ファンの間では有名である(その後戦闘シーンでも使用)。しかし、この選曲は次善策として採用されたものだった。

 1983年刊行の「ファンタスティックコレクション No.29 ウルトラセブン SFヒーローのすばらしき世界」に寄稿した満田監督はこう語っている(明らかな誤字は引用者が訂正した)。

私の頭の中には、ダンがアンヌに「僕はウルトラセブンなんだ」と告白するシーンに絶対使いたいピアノのメロディがあった。ラフマニノフのピアノコンチェルトだ。ダビング(セリフや効果音、音楽等をミックする作業)の時に、音楽担当の冬木透にラフマニノフのピアノコンチェルトのレコードを持って来てもらって聞いた。違う! 私の頭の中にあるメロディとは全然違う。楽曲名を誤って憶えていたのだ。冬木透が別に持って来てくれたレコードから何かを選曲することにした。結局、シューマンのピアノコンチェルトになった。

 ……かくのような経緯をたどり、あのシーンに流れる曲にはシューマンのピアノ協奏曲が採用された。個人的な話になるが、この稿ではラフマニノフの名前が「ラフマニーフ」と誤記されていたため(この本は縦書きだった)、おれは長いことこの作曲家の名前を間違って記憶していた。朝日ソノラマも罪なことをしたものである。多感な時期にこの本に触れたおかげで、セブンとシューマンとラフマニノフは三点セットで頭の中に刻印されてしまった。日頃クラシックを聴く機会はほとんどないが、ラフマニノフの名前を聞くと「本当はあのシーンに流れるはずだったのはこの曲だったのかな?」と思うようになった。

 昨夜放映された「のだめカンタービレ」で流れた「ピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品18」を聞いて、またも「ひょっとしてこれだったのか?」との思いに囚われた。ラフマニノフが作ったピアノ協奏曲は全部で5曲だから、満田監督が作曲者の名前を間違えて憶えていない限りはこの中のどれかということになる。冬木氏がその時に持参したレコードはそのすべてを網羅していなかったのだろうか? あの最終回の放映から40年弱、真相は闇の中である。

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「サヨウナラ、サブロウクン」

 声優でありナレーターでもあった小林恭治氏が8日に亡くなった。享年75。

 訃報を伝えるasahi.comの記事では「おそ松くん」のイヤミと「ひょっこりひょうたん島」のマシンガン・ダンディが代表作としてあげられているが、このあたりを見ていた世代よりも少し下のおれなどからすると「声優:小林恭治」よりも「ナレーター:小林恭治」のイメージが強い。特に1978年から1986年にかけて放映されたNHKの「ウルトラアイ」が印象深い。知的でかつどんな年代にも親しみやすい語り口に、科学への興味をそそられた視聴者は少なくなかったと思う。おれとほぼ同年代の谷口悟朗監督が「プラネテス」で小林氏をナレーターに起用したのにも、少なからず「ウルトラアイ」の影響があったのではなかろうか(NHKでの放映だったこともあるし)。

 個人的なイメージが「小林恭治=ナレーター」で固まっているせいか、「銀河英雄伝説」で声優としての演技を耳にしたときには少なからず面食らってしまったものだ。

 特撮物でも何本かのナレーションを担当した小林氏であるが、変わったところでは「ウルトラセブン」のゴドラ星人や「大鉄人17」中盤以降のワンセブンの声も演じている。

 ワンセブンがしゃべるようになったことに不満を持つ向きもおられるだろうが(当初ワンセブンは「イエス」と「ノー」のシグナルでしか意志を表示できなかった)、放映当時のおれはむしろワンセブンが小林氏の声でしゃべることで、それまでより近しい存在になったように感じた記憶がある。それだけに最終話でワンセブンが敵の親玉もろとも自爆してしまったのは寂しかった(「そのラストは『ジャイアントロボ』と同じじゃないのか」などとつっこまないように)。今回タイトルに使ったのは、最終話で主人公の三郎に向けたワンセブンの別れの言葉である。短くありふれたこの言葉に込められたワンセブンの思いを今になって想像すると、思わず泣けてきてしまう。

 稀代の名ナレーターよ、永遠に。あなたの声はけして忘れません。

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「チョイオタ」なる不思議な分類

 経験的に言えば、話題になるアンケートや統計は往々にして胡散臭い。そんなアンケートがまた一件。「意識調査『30代-40代の約7割が「チョイオタ」!?』」なのだとさ。いかにも「先に結論があって、それをもっともらしく見せるためにアンケートを実施した」という印象を受ける見出しである。

 まず調査方法から検証してみる。

メール転送サービスCLUB BBQなどを運営する株式会社アイシェアは、30代、40代の携帯会員を対象としたオタク(ヲタク)に関する意識調査を行った。

有効回答数:811名 [ 30代 64.5% 40代 35.5% (男女比 7:3) ]
調査期間:2007年2月5日~7日(48時間)]

 わざわざ括弧書きで「オタク(ヲタク)」という表記を使っているところに悪意めいたものを感じてしまうのは気にしすぎであろうか。このアンケートの取り方は会員登録してある対象者に「こんなアンケートをやるので、この期間にこのアドレスにアクセスしてください」といった主旨のメールを送って答えてもらうものだ。回答するかしないかは会員の任意であるから、回答する側がお題に興味を示さなければ協力してもらえない。つまり、アンケートに答えた人は理由はどうあれこの話題に興味があるということになる。回答者に「俺そうだよ」という自覚があった可能性は少なくないだろう。

 また、対象にした年齢層が多感な時期を過ごした時代背景も考慮すべきではないか。1970年代にはいわゆる第2次怪獣ブームがあり、「仮面ライダー」放映による変身ブームがあり、「マジンガーZ」や「宇宙戦艦ヤマト」といった爆発的ヒットとなったアニメ作品も放映された(ファーストガンダムもテレビの本放送は1979年だが、一大ブームを巻き起こすのは1980年代になる)。同時期には「8時だョ!全員集合」が最高視聴率50.5%(1973年4月)という驚異的な数字を叩きだしている。

 今のようにテレビが「1人に1台」でなく「一家に1台」だった時代である。アニメや特撮、当時の流行歌が同世代の「共通言語」となっていてもおかしくない。そんな世代が30代・40代になって昔話で盛り上がっている、それだけの話ではないのだろうか? わざわざ「チョイオタ」という妙な分類をするほどのことなのか、どうにも不思議である。

 それもこれも「オタク」という言葉が持っているマイナスイメージが大きいせいなのだろう。だから「チョイ」なんて接頭語をつけて「俺はあんな連中とは違うよ」と暗に主張したいのかもしれない。しかし「オタク」の一語がカバーする範囲は、そこいらの調査会社が考えているものよりもはるかに広いことを忘れてもらっては困る。どんなジャンルにもいるんですよ、オタクってやつは。

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光の国に祈りをこめて

 今年はウルトラマンシリーズ誕生40周年だというのに、そのシリーズ最初の作品の立ち上げに尽力した人たちが相次いでこの世を去った。今朝方には実相寺昭雄監督(29日深夜没)の訃報が流れ、夜には音楽を担当した宮内國郎氏(27日没)の訃報が。同じ日にこうした事態に接することがなかったせいか、正直どうコメントしていいものやら分からない。

 実相寺監督は、ファンの間から「実相寺アングル」と呼ばれるほどの極端なアップ(普通は毛穴が写るほど寄ったりしない)やカメラと人物の間にものを入れる撮影方法、独特の照明の使い方などで知られる。
 本来子供がメインターゲットであるはずのウルトラシリーズでも堂々と自分の個性を押し出した作品を撮る監督で、「ウルトラセブン」の『第四惑星の悪夢』(第43話)や『円盤が来た』(第45話)は、あまりのシュールな作りに子供の頃はどこが面白いのかさっぱり分からなかった。後年製作された「ウルトラマンティガ」で監督した『花』(第37話)でも独特の個性は健在で、正直「これ、監督の名前を知らずに見ている人も楽しんでるのかな?」と思ったものである。
 今年の2月に他界した脚本家の佐々木守氏と組んでは、ちょっと斜に構えたような雰囲気を醸す作品群(劇場公開された「実相寺昭雄監督作品ウルトラマン」を見れば一目瞭然だ)を数多く遺した監督であるが、一番脂がのっていたのはやはり「怪奇大作戦」ではなかっただろうか。「今夜は追悼の意をこめて『京都買います』を見る」という実相寺ファンが多数いることと思う。

 とかく「ウルトラシリーズの音楽」というと、ワンダバコーラスで有名な冬木透氏の名前が挙がりがちであるが、「ウルトラQ」と「ウルトラマン」でジャズに根ざした劇伴を手がけた宮内氏の名前も忘れてはならないだろう。しかしながら、手元にある宮内氏の音楽がオムニバスに収録された主題歌と挿入歌の類しかないというのは、故人に対する礼を欠いてしまっているようにも思う。耳にする頻度の差もあってか、宮内氏の名前を聞いて真っ先に連想したのが「ウルトラファイト」の本編BGMだったりするのも我ながらいかがなものか。
 宮内氏が生前手がけた作品の中では、ウルトラ以外に映画「ガス人間第一号」(1960年公開)がある。ある意味のちの「ウルトラQ」にも通じるであろう作品で、傑作の呼び声も高い。訃報を知って見たい衝動に駆られたのが「ウルトラQ」でも「ウルトラマン」でもなく、この映画だったのはなんだか不思議だ。

 初代ウルトラマンが誕生して40年、当時製作に情熱を傾けていた人たちもずいぶん“光の国の住人”になってしまった。いずれ誰もがそうなるのだが、2人も相次いで旅立たれてしまうのはやはり一ファンとしては寂しい限りだ。

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そして殺人者は野に放たれる

 特撮もののテレビシリーズのひとつ「怪奇大作戦」で、現在欠番扱いとなっているエピソードが1本ある。第24話『狂鬼人間』がそれだ。犯人は“脳波変調機”で一時的な精神障害者を作り出し、殺人を起こさせる。殺人を犯しても、刑法第39条第1項にある「心神喪失者の行為は、罰しない」が適用されて無罪放免となってしまう。SRI(科学捜査研究所)は犯人を追いつめるが、犯人は自ら脳波変調機で永遠の狂人になってしまい、このエピソードは嫌な後味を遺したまま幕を下ろす。

 特撮ものとは関係のない立場から『狂鬼人間』封印への経緯を探った「封印作品の謎」(著・安藤健二)で、おれは「そして殺人者は野に放たれる」(著・日垣隆)の存在を知った。日垣氏は、自著についてこう語っている――

 本書は、愉快な書物ではありません。あまりにも深刻な事件が多すぎて、ご気分を害することもあるでしょう。けれども、「正常と異常の境界線はどこにあるのか」「なぜ人は罪を犯すのか」は、おそらく人間にとって大切なテーマだろうと思います。(文庫版あとがきより)

 実際に読んでみると、「日本という、この国の司法制度はいったいどうなっているんだ?」という著者の怒りが痛いほど伝わってくる。「通り魔殺人で4人もの命を奪った犯人が『覚醒剤を使用していたこと』を理由に刑を軽減された」とか、「客の乗ったバスに放火して6人を殺した犯人が『多量のアルコールを摂取して酩酊状態にあったこと』を理由に刑を軽減された」……なんて事例が次々と暴き出される本である。愉快になれるわけなどない。ましてや前述の2人は判決で心神耗弱が認められると「してやったり」とばかりに笑みを浮かべたという。

 日垣氏は刑法のみならず、それを運用する側にも容赦ない刃を振るっている。検察は「起訴しても無罪判決を下されては出世に響く」という理由から、39条が適用されそうな案件については起訴そのものをしない。弁護士はなんとか39条が適用されるように被告人を誘導する。裁判官は何事にも「まず判決ありき」で、自分の頭でものを考えない(引用されている判決文の悪文ぶりには頭が痛くなる)。こんな状態でまともな裁判が執り行われるとはとても思えない。現行刑法が運用される限りは――少なくとも第39条が削除されるまで――どのような立場であれ、彼らのご厄介にはなりたくないものだ。

 さて、冒頭に挙げた『狂鬼人間』のケースであるが、もし実行に移されてしまったら犯人にはいかなる処分が下されるのか? けっこう真面目に考察したものがWikipediaからリンクされている。

11月29日追記:この題材を取り上げるのに前後して、連邦でも『狂鬼人間』が取り上げられた。もちろん偶然の一致。リンク先のYouTubeの映像はいつまで見られるか分からないので、これを機に見てみるのも封印作品を見る手段のひとつではある。

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往年のファンのための最新作

 今年はウルトラシリーズ誕生40周年。というわけで、テレビでは最新作の「ウルトラマンメビウス」が放映中で、そこへつながる世界観を持つウルトラ兄弟と共演する映画が製作された。その「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」を観てきた。

 こういう言い方をしてしまうと語弊があるかもしれないが、言い切ってしまおう。「メビウス」の予備知識はなくてもいいから、「タロウ」までの予備知識なら十分ある年季の入ったウルトラファンは観てきなさい。特に「エース」のファンの人は万難を排してでも観に行くように。

―以下、ネタを割りまくっているので見ていない人は注意されたし―

 冒頭から初代ウルトラマンからエースまでの4人を向こうに回して暴れまくる「究極超獣」Uキラーザウルス。戦場が月面から地球の衛星軌道に移るあたりから、早くもCGを駆使した板野サーカス全開。おお、ちゃんとセブンの声は森次氏だ。

 Uキラーザウルス封印から20年、1人神戸に降り立つメビウス=ヒビノ・ミライ。着陸するガンウインガーと実景の合成がいい感じ。そして偉大なる先達との出会い。みんないい感じに歳を取っている。高峰氏が「エース」の頃からほとんど雰囲気が変わっていないのは凄い(「今でも50メートルを全力疾走できる」と監督に語ったそうだ)。特に今回は相手がヤプールということもあってか、北斗=エースのテンションは高め。

 宇宙人連合の先陣を切って登場するのがテンペラー星人だったのは意外だったが、あっけなくメビウスに敗れてしまったのはもっと意外。「口ほどにもないやつ」などと思っていたら、同じことをガッツ星人が口にしたので思わず失笑。他の宇宙人連中も、変身能力を駆使して人をペテンにかけるザラブ星人、分身戦法で相手を翻弄するガッツ星人、確実に段階を踏んで計画を進めるナックル星人、とオリジナルの設定を踏襲してくれているあたりが「分かってるなあ」と思う。

 罠にかかって捕らえられたメビウスを「助けよう」と真っ先に提案するのは「タロウ」のときと同じでやっぱり北斗。ハヤタが止める展開までは同じだが、郷の「勝てばいいんですよ」という声に後押しされる形で最後になるかもしれない変身を決意する4人。横並びで歩いてくるシーンからおのおの変身していくくだりは鳥肌ものだった。

 上記のシーンに限らず、要所を押さえるように流れる、「ウルトラ六兄弟」や往年のBGMのアレンジ曲は、これまたオールドファンのツボつきまくり。

 復活したUキラーザウルスに対してゾフィーとタロウを加えた7人が画面を縦横無尽に飛び回るシーンでは、板野サーカスがオーバーブースト。編集でうまくつないでいるが、やはり実物のスーツとゲームみたいなCGの違和感が最後までぬぐえなかったのは少々残念。タロウがストリウム光線を放つ前の「溜め」を再現しているが、「これがCG作画でなかったら」、「タロウの声が篠田氏だったら」と思ってしまうのは高望みか。

 なんだかんだで難敵を破って、神戸を後にするミライ。さりげなく北斗がTAC時代の「二本指を立てての敬礼」を送っているのが心憎い。徹頭徹尾北斗のキャラクターが立ちまくりだったのが、第二期ウルトラの洗礼を幼少期にたっぷり浴びた人間にはなんだかうれしい。……とか言いながらも戦闘シーンではセブンばかりに注目していたのを白状しておく。やっぱりカッコいいよ、セブン。

 見終わって感じた印象は「この作品のメインターゲットは、今『メビウス』を見ている子供たちよりも、その親たちだ」ということ(なにせGUYSの面々はほとんど出番がないし)。おれと同年代の人にとっては夢のような映画に仕上がっていると思う。

 ところで、公開前に流れていた「ゾフィーの人間体の登場予定」の話は、いつ立ち消えになったんだ? 楽しみにしてたのに。

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GOJIRA、アメリカに上陸

 タイトルに使った「GOJIRA」はタイプミスではない。1998年に公開された、ローランド・エメリッヒ監督の巨大イグアナがマンハッタンをどたどた走り回る映画のことでもない。1954年公開の本多猪四郎監督の「ゴジラ」のことである。その「ゴジラ」のオリジナル版がようやくアメリカでDVD発売されるという(Sankei Web)。そのタイトルが「GOJIRA」。

 1954年版「ゴジラ」は、アメリカではレイモンド・バー(「弁護士ペリー・メイスン」等で知られる)の出演シーンを追加した上で編集を施した「怪獣王ゴジラ(英題:Godzilla King of the Monsters)」として公開された(アメリカ版の監督はテリー・モース)。

 ただ、この編集というやつが曲者で、視点がレイモンド・バー演ずる新聞記者のスティーブ・マーティンに置かれているためか「ゴジラは水爆実験のために住み処を追われて地上に出現した」という重要なテーマが語られていない。「ゴジラという巨大怪獣が東京に上陸してあちこちを壊しまくって、マーティンの友人である芹沢博士(そういう設定になっている)が発明したオキシジェン・デストロイヤーで退治される」だけの作品になっているのである。従って、ファンには有名な山根博士の「あのゴジラが最後の1匹だとは思えない」以降の台詞もばっさり切られている。

 アメリカでのオリジナル版DVD発売にあたり、Sankei Webで取材に応じたカンザス大のウィリアム・ツツイ教授は語る。

 ツツイ教授によれば、ゴジラは見る人に、核開発の行き着く先や、科学万能に対する自然の復讐(ふくしゅう)などと映り、そこに独特のこわさがある。同教授はまた、「東京を破壊するゴジラは当時の日本人には第二次大戦の恐怖とも重なったことだろう」と語る。

 このコメントを読んで、「アメリカにも元祖『ゴジラ』のテーマを理解している人がいるじゃないか」と安心した。世界で唯一実戦で核兵器を使ってしまった国の人たちにはしっかり見てもらいたい。特にホワイトハウスでふんぞり返って時折バカな発言をしている人あたりには。

 ローマ字をそのままタイプしたような「GOJIRA」の表記はちょっといただけないが、名前の出自が大戸島の伝説の怪獣「呉爾羅」に由来することを考えると、妥当な処置なのかもしれない。

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行き当たりばったりにも程がある

 ボウケンジャーとカブトの映画を見に行ってきた。尺的にも上映順的にも「ライダーが主で戦隊が従なんだろうな」という感があったが、その「主」の方がグダグダだったのには閉口した。

―以下、ネタを割りまくっているので見ていない人は注意されたし―

 いきなり「巨大隕石の落下で海が干上がった世界」というシチュエーションも相当にトンデモだが(海がないことによる昼夜の寒暖差の描写とかなかったぞ)、その後の映画独自の展開であるZECT対ネオゼクトという構図はほとんど「仮面ライダーという用心棒が戦う暴力団抗争」にしか見えなかった。そこに首を突っ込んでくる天道総司は、テレビシリーズに輪をかけて何を考えて行動しているのか分からんキャラクターと化していた。意図的に差別化を図ったのかもしれないが。

 ストーリーも相当に行き当たりばったりで、軌道エレベーターで衛星軌道に上がってケタロスとウソくさい戦い(宇宙空間でバーニアもなしにどつきあいするのは無理ありすぎだろう)をしたかと思ったら、平然とバイクで地上に舞い戻り、かと思えばまたまたバイクでエレベーターを駆け上がるという忙しい展開。そこに待ち受けるのは、ごついご面相に不相応なキザ台詞を口にするコーカサス。「戦いの舞台は宇宙」と言えば聞こえはいいが、実際に戦っているのはどう見ても窮屈なセットの中なので、「映画ならではの豪華さ」という雰囲気はあまり感じられなかった。

 そしてご都合主義としか形容のしようのない、ハイパークロックアップによる時間巻き戻し。加速装置は演出手法としてアリかもしれないが、仮面ライダーがアイテムで時間を逆行操作するのはやりすぎではないのか? いつから仮面ライダーは藤子プロの著作物になったんだ? それで冒頭の隕石落下をなかったことにしてしまうというのは、まっとうな作劇を放り出しているとしか思えない(茶色かった地球が青くなるのはヤマトへのオマージュか?)。それともテレビシリーズへつながる流れを作ったつもりなのだろうか。

 この分だと来年もライダーの映画が作られるのであろうが、もっとちゃんとしたストーリーが書ける人に脚本はお願いしたい。見ていた子供はかなり退屈していたようだったぞ。

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怪獣一人語り・メカゴジラの巻

 ひさしぶりに怪獣の話をしてみようと思う。

 ゴジラは、その誕生から10年後に好敵手(?)であるキングギドラを対戦相手に迎えた。それからさらに10年の間、ゴジラはそのキングギドラと3度も闘い、時にはただの大きなエビと闘ったり、ただの大きなカマキリと闘ったり、ただの大きなクモと闘ったりしたのだが、誕生20年目にしてキングギドラに匹敵する強敵を対戦相手として迎えることとなった。

 ポスターにあるコピーを引用すると「宇宙をとび、ミサイルを撃ち込む!全身が武器の凄いゴジラが現れた!」。そう、メカゴジラである。

 既存のキャラクターをメカに置き換えたものとしては「キングコングの逆襲」(1967年公開)に登場したメカニコングという前例があるのだが、これは本来資源採掘用のロボットであり、戦闘用ではなかった。しかしメカゴジラは、単にゴジラのキャラクターをメカに置き換えるにとどまらず、全身に武装を施した異星人の侵略兵器としてスクリーンにデビューする。その強烈なキャラクター性は人気を呼び、円谷英二の没後に登場した怪獣としては唯一、複数回にわたってリメイクされることとなった。以前の例に倣って登場作品を以下にリストアップする。

  1. 1974年「ゴジラ対メカゴジラ
  2. 1975年「メカゴジラの逆襲
  3. 1993年「ゴジラVSメカゴジラ
  4. 2002年「ゴジラ×メカゴジラ
  5. 2003年「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

 表記上はなんら問題ないのだが、1・3・4の3本のタイトルがどれも「ゴジラたいメカゴジラ」と呼称されるのは非常に紛らわしい。まあ3は「ゴジラ・ブイエス・メカゴジラ」と読めば問題ないのだが。

 メカゴジラのデビュー作である「ゴジラ対メカゴジラ」は、全体的にツッコミを入れられるような隙が多すぎて、正直なところ30代半ばにもなって正視するにはつらすぎるものがある。しかし、前出のポスターのコピーに偽りはなく、コンビナートでのゴジラとの初戦はもちろん、クライマックスにおけるゴジラとキングシーサーの2頭を敵に回しての沖縄戦ではその性能を遺憾なく発揮した。特撮ファンからは“爆発の中野”との異名でも呼ばれる中野昭慶特技監督の個性が文字通り爆発し(余談になるが、同年8月公開の「ノストラダムスの大予言」では撮影中に東宝第7ステージを全焼させている。爆発をやりすぎたせいではないのだが)、佐藤勝のやたらハイテンションな音楽も実にマッチしていた。

 翌年公開の「メカゴジラの逆襲」では、そのタイトルとは裏腹にメカゴジラは脇に回り、新怪獣チタノザウルスを軸にストーリーは展開される。事実メカゴジラはチタノザウルスより先にゴジラに倒されてしまうのだから驚きだ。本作は28本あるゴジラシリーズで唯一女性が脚本を書いた作品であり、第1作を手がけた本多猪四郎監督の事実上の遺作でもある。伊福部昭が音楽を手がけたこともあってか、前作からの直接の続編であるにも関わらず雰囲気はかなり異なる。東宝チャンピオンまつり本来の客層である子供たちへのアピールの弱さもたたってか、観客動員数は歴代ワーストの97万人にしかならず、ゴジラシリーズは休止を余儀なくされることとなる。

 1993年の夏、おれは当時渋谷にあった海洋堂のショールームで実にインパクトのある1枚のポスターを見た。いわゆる「平成VSシリーズ」で告知ポスターのイラストを手がけた生頼範義の手による「ゴジラVSメカゴジラ」のポスターであった。ポスターの上半分を占める、アオリ構図のメカゴジラの迫力たるや筆舌に尽くしがたい物がある。それにダメ押しの一点を加えるかのように簡潔でかつインパクトのあるコピー「この戦いで、すべてが終わる。」が右上に添えられていた。このポスターでの第一印象が強烈すぎたせいもあって、実際に映画に登場するメカゴジラを見たときにはかなり落胆したものである。

 このメカゴジラは、海底から引き揚げられたメカキングギドラ(「ゴジラVSキングギドラ」に登場)に使われている23世紀の科学力を解析して作られた究極の戦闘マシーンということになっている。しかし、これを運用するGフォースという組織がエリート集団とは名ばかりのマヌケ連中だったのには辟易した。ミーティングでは「ゴジラ攻撃の安全圏は奴の背後水平方向43度、垂直方向81度の範囲だ」とか御託を並べていたくせに、いざ実戦となるとその御託はどこへやら、バカ正直に正面から撃ち合いをするような連中だったのである。そもそも、ゴジラに対抗するためにゴジラの姿を模したゴジラと同じサイズのロボット兵器を作る必然性が感じられないのが痛い。さらに、このメカゴジラの最大の武器であるプラズマ・グレネイドは、ゴジラが吐いた熱線を増幅して撃ち返すものである。裏を返せば、ゴジラの熱線を正面から食らわないとこの武器は使えない。ミーティングでの隊長の御託はなんだったんだろう。

 時代はさらにくだり、興行的な理由から2001年の映画での登場怪獣をモスラとキングギドラに差し替えた東宝は、2002年のゴジラ映画にまたまたメカゴジラを引っ張り出す。今度は1954年に現れてオキシジェン・デストロイヤーによって溶かされたゴジラの骨を引き揚げ(第1作の「ゴジラ」では骨まで溶けてしまったが)、これを元にした生体ロボット“機龍”として登場する。初めて「メカゴジラがゴジラと似た姿をしている」ことに理由が付けられたのである。従来のメカゴジラと異なり、外付けのバックユニットに武装が集中していることも特徴のひとつに数えていいかもしれない。バックユニットを排除した後には火力が低下してしまうこともあって、今までになく「ゴジラと取っ組み合うメカゴジラ」になっている。それゆえか「ゴジラ×メカゴジラ」も「東京SOS」も、派手なコピーとは裏腹に地味めなストーリー展開になっている。運用していたのも自衛隊だったし。

 ……ぐだぐだと思い返してきたが、やはりメカゴジラはゴジラに向かってボカスカ撃ちまくる初代のイメージが強くある。あれが「メカゴジラ」というブランドの原点にして頂点だった、そんな気がする。

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魔女役者よ永遠に

 女優であり声優である曽我町子さんが亡くなった。享年68。亡くなったのは7日早朝で、訃報は9日の朝刊(読売新聞の場合)に載っていた。なにぶんにもこのとき入院中だったので、訃報を知ったのは病院から一時帰宅した13日とえらく遅かった。

 新聞などでは「オバQの初代声優」という肩書で取り上げているところが多かったが、おれにとって曽我さんは、いつどこに出てきても「アヤしいおばさん」であった。怪しい魔法使いだったり、怪しい占い師だったり、とにかく全方位に向かって怪しいオーラを発散させる役者さんだったのである。そんな役柄なのに、どこか憎みきれないユーモアを醸し出していたのは、やはり曽我さんの持ち味と言うべきか。

 特撮ファンには俳優特有の「持ち役」みたいな認識がある。マッドサイエンティストなら天本英世、主人公の味方の科学者なら平田昭彦、ちょっと頭のおかしい脇役なら大村千吉、そして魔女なら曽我町子であった(以上敬称略)。曽我さんの他界で、みなさん過去の人になってしまった。新聞の訃報欄に名前が載らない日などないのだが、ことのほか今年はアニメや特撮に関係した人たちの訃報が多いように思う。

 いくつかブログなどを見てみたが、みな一様に驚きを隠せないように感じられるのは「曽我町子は自分に不死の魔法をかけているんじゃないのか?」と半ば本気で信じているからのような気がしてならない。そんなわけで、曽我さん、あの世に飽きたらいつこちらに帰ってきてもいいですよ。きっとみんな「ああ、やっぱり帰ってきた」と受け取るはずですから。

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なんだか微妙なメビウス

 先日、かなり期待をしたトピックを書いた「ウルトラマンメビウス」であるが、第2話を見てまたちょっと見方が変わってしまったような気がする。

 さしあたって防衛チームの体裁を整えるために、第1話で幼稚園のウサギを逃がすのを手伝った連中に「また手ぇ貸してくんない?(註:意訳)」と声をかけて回るくだりはまるで「ジェットマン」である。そうして集められた連中が「1回だけ」とか言いながらも正式入隊を決めてしまうあたりにも戦隊シリーズの匂いがする。それがいかんと指弾するつもりはないのだが。

 また、それまでの「M78星雲出自のウルトラシリーズ」の設定を引き継いでいるためか、かつての異星人の残したテクノロジーを応用したメテオールなる設定が登場(これの元ネタは『ゴジラVSメカゴジラ』か?)、レイズナーのV-MAXかガンダムF91の高機動モードを思わせるぶっとんだ性能を発揮しているが、テクノロジーを解析できるようにとっつかまえた例なんてあっただろうか? 侵略宇宙人のメカはあらかたぶっ壊していたような気がするぞ。

 そのメカの出撃シーンに、ウルトラファンにはおなじみの「ワンダバ」コーラスが使われているが、これについては「ワンダバだ!」と無邪気に喜ぶ声と、「なんだ、あのワンダバは?」と賛否が分かれているようだ。おれ個人の見解としては後者の意見に同意である。Project DMMの高めの声のバックにワンダバコーラスは合っていない。「とりあえずメカの出撃シーンにワンダバを流せばファンは喜ぶだろう」という安易な姿勢が透けて見える気がしてならないというのもある。

 第2話でメビウスはグドンと戦っているが、この戦闘シーンの演出も今ひとつ腑に落ちないものがある。ピンチに陥ったメビウスをガンウィンガーが援護して隙を作り、アイハラ隊員に「今だー!」とまで叫ばせておきながら、なんでメビウスはとどめを刺す準備にもったい付けるのだろう? そこでとどめを刺されるのを律儀に待っているグドンもグドンだけど。

 そしてレーザーブレードメビュームブレードですれ違いざまに斬りつけるのだが、なんでムチ状の腕は斬り落とされて残った胴体は木っ端微塵に吹っ飛ぶんだ? 首を斬り落とすと、テレビを見ているオカーサマ方から「残酷だ!」と抗議されるのが面倒だからか? 首をはねても、木っ端微塵にしても、「生き物を殺した」という事実に変わりはないのに。

 それでも今回のグドンといい次回登場のバードンといい、リメイク怪獣がオリジナルに忠実な造形で、そして同じ鳴き声で出てくるのはウルトラファンとして素直に喜んでおこうと思う。

 ……次回もこんな調子で感想書いちゃうのだろうか? それは内容次第である。

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ウルトラマンへの喝采と罵声

 気が付いたら今年はウルトラマン生誕40周年。というわけで、記念作品である「ウルトラマンメビウス」が始まった。個人的には第1話から「ウルトラ」を見るのは1998年の「ウルトラマンガイア」以来のことになる。冒頭、いかにも「これCGで描きました」なマントをひるがえして、ウルトラの父が口をゴニョゴニョ動かしながらしゃべるのはどうにも違和感があったが、本編は意外に素直に見られたように思う。

 いきなり「ひとつ、腹ペコのまま学校に行かぬこと。ひとつ、天気のいい日に布団を干すこと」と、知ってる人は知っている、そして初めて聞いた人は絶対に耳を疑う(どうしてウルトラマンが布団を干すことをわざわざ勧めるのだ?)「ウルトラ5つの誓い」を諳んじるクルーGUYSのアイハラ隊員。普通の人が見たら引くであろう光景である。4つめの「ひとつ、他人の力を頼りにしないこと」(5つのうちでこれだけが「ウルトラマンが残した言葉」らしく聞こえる)をヒビノ・ミライが口にすることで、彼がウルトラマンであることを視聴者に改めて教える展開は上手いのではなかろうか。

 第1話らしく、特撮パートはけっこう派手。それでいて昔風。怪獣が地上に降り立ったときには同時に瓦礫が跳び上がり、メビウスが降り立つときにはその演出をしないことで、これまたさりげなく描き分けている。

 群衆が喝采を送り、テーマ曲が流れる中で、ただ1人アイハラだけが「ビルを盾にしたこと」を苦々しく口にする。怪獣を倒して「どうだ、おれは強いだろう」とばかりに胸を張るメビウスに、周囲を瓦礫の山にしてしまったことをアイハラが罵倒するのがこれまた対照的。新米ウルトラマンはこれからそうした意見にどう向かい合うのか、妙な興味がある。下手をすると「ウルトラマン研究序説」みたいな毒にも薬にもならないものになりかねないが。

 9月には歴代ウルトラ役者(しかもちゃんと変身する)をゲストに迎えての劇場版「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」が公開されるが、客演するウルトラ兄弟がオリジナルを尊重した造形がされているのが面白い。初代ウルトラマンだけ手袋のすそを隠す処理がされているのには思わず拍手だが、欲を言えばAタイプでなくCタイプを再現してほしかった。あと、セブンの顔はもうちょっと横幅があったと思うぞ。まあなんだかんだと言いながらも公開になったら見に行っちゃうんだろうけど。

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永遠の傍観者

 脚本家の佐々木守氏が亡くなった(asahi.com)。享年69。

 佐々木氏というと、実相寺昭雄監督と組んだ、シリーズの中では異質な作品群が印象に残る。本来子供たちのあこがれの対象であるウルトラマンが罵声を浴びせられたり、太陽の下では生きられない地底人がハヤタが変身するときの強烈な発光で勝手に全滅してしまったり、出てきた怪獣が重すぎてウルトラマンが持ち上げられずに押しつぶされたり。かの「セブン第12話」の脚本も佐々木氏の手によるものだ。

 もちろんこうした変化球が有効であるためには、直球勝負もできなくてはならない。「ウルトラマン」の場合、直球勝負はメインライターであった金城哲夫氏が受け持っていた。そんな構図を、ライターの切通理作氏は著書の「怪獣使いと少年―ウルトラマンの作家たち」の中でこう形容している―

金城哲夫を一生懸命クラス全員を団結させようと頑張る学級委員にたとえるなら、佐々木守はそれを遠くから冷ややかな目で観察する優等生といった感じだろうか。

 切通氏は上記の本の中で、佐々木氏の章に「永遠の傍観者」というタイトルを付けている。そして傍観者というスタンスを貫いてこの世を去ったように思う。

 七夕の夜に雨が降らなかったらあなたに会えますか、佐々木さん。

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ゴジラは死なず

 「寝る前にもう1回2ちゃんの巡回でも…」と思って更新チェックをしたら飛び込んできたのが伊福部昭御大の訃報(asahi.com)であった。享年91、大往生と言うべきであろう。

 ゴジラシリーズでは第1作(1954年)から『メカゴジラの逆襲』(1975年)まで断続的に担当し(それ以外にも特撮映画の音楽を多数担当)、『ゴジラVSキングギドラ』(1991年)で再登板した。『ゴジラVSデストロイア』(1995年)の音楽を担当したときに「体力的に映画音楽の仕事はもうできない」とコメントしておられたが、この映画の音楽録音で自らタクトを振っていた時点で81歳である。伊福部氏の映画音楽にかけていた情熱たるや計り知れない。

 伊福部氏を語る上で特撮映画の劇伴音楽は切っても切れないのだが、そのエッセンスが凝縮されているのが「SF交響ファンタジー」であろう。おれは1983年に日比谷公会堂でライブ録音されたものをCDで持っているが、「ゴジラの脅威」のモチーフで始まって、『ゴジラ』メインタイトル、「巨大なる魔神」モチーフへとつながる第1番の出だしと、『地球防衛軍』のテーマがテンポアップしながら盛り上がっていく第3番のクロージングはひたすら圧巻である。生演奏に立ち会えた人たちがうらやましい。

 トピックタイトルの「ゴジラは死なず」は『ゴジラVSキングギドラ』のローリングタイトルの曲に付けられたタイトルであるが、このタイトル同様、伊福部メロディーも不滅である。先生、今まで素晴らしい曲を聞かせてくださってありがとうございました。安らかにおやすみください。

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男はワンダバ

 伊福部昭の音楽をあらかたネタにしつくした感じの不気味社が次に手がけたのは、円谷テレビ特撮音楽の巨匠・冬木透であった。伊福部昭は「ゴジラのテーマ」くらいしか知らない人でも、冬木透が音楽を担当した作品は、古くは「ウルトラセブン」から近作では「ウルトラマンコスモス」まであるから、どこかの世代で引っかかるはずである。

 そんなこんなで、昨年夏の「全日本おたくの祭典」で販売された「豪快なワンダバ」は、「ワンダバ」の知名度ゆえかあっという間に完売したそうである。そりゃあ、ある程度ファン層が限定される映画特撮の音楽と、広範囲な認知度のあるテレビ特撮の音楽では売れ行きも変わってくるだろう。

 その「豪快なワンダバ」が昨年末に再販された(ご丁寧にジャケットには小さく『帰ってきた』の文字が入っている)。今回は頒布元からメールで再販のお知らせを頂戴したので(ありがとうございます)、早速通販の申し込みをした次第である。

 元が男声コーラスのものが中心であるから、原曲に忠実にアカペラで再現しても一向に違和感がない。知らん顔してそのままBGMで流しても気付かれないのではないかと思うほどの再現度である。そこが「不気味社的には物足りない」と思う向きもおられるだろうが、これはこれでありだろう。もちろん笑うところがないわけではない。これから聞く人もいるであろうから具体的には触れないが「繰り返しはギャグの基本」とだけ言及しておく。

 それにしても「朝日に向ってジャンボフェニックス」はやっぱりかっこいいなあ。再認識。

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写真週刊誌とセブン第12話

 特撮ファンにとって、「ウルトラセブン」の第12話『遊星より愛をこめて』が欠番になっているのは常識と言っていいだろう。「セブン」のファンであれば「なぜ12話は欠番なのか?」という疑問は誰でも一度は通る道である。ちょっと深く足を突っ込んでいる人であれば、欠番に至った経緯もおおよそご存知であるはずだ。2ちゃんねるにある「セブン」